天竜川の渓谷に立地しているということ、その南北性の渓谷に南北性の風が常に吹くということから、家は南北の方向に棟を持ち、谷の中心-つまり東か西に向いている家、つまり谷ナリの家が多いのであって、南向きの家などは、南北性の谷では南風に直面してしまいどうにも暮らしが立たないのである。
その東向き、西向きの家では、入り口から、裏へ通り抜けるような土間を持ち、家の中心に立つ「大黒柱より奥に」イロリがあり、さらにその奥に流し元といわれる炊事場を持っている。このイロリのある間の並びの部屋が、いわゆるネマ(寝間)であって、主人夫婦の日常の起居の場であり、ちょっとした来客の接待などはイロリの傍らですませてしまう。つまり、諏訪の「表住居」に対して、これは「奥住居」である。そしていわゆる座敷に寄り表側の並び、それにカギノテといって、奥へ、ネマと並んだ所に上座敷などを持つのである。諏訪の日当たりのよく見晴らしよい所を常の住居とする考えに対して、これは、日当たりよく見晴らしよい所を座敷とし、奥の方の、人目に触れにくい所を、たとえ日当たりなどどんなに悪くとも常の住居にしようとするタイプなのである。ここに諏訪よりも温暖な伊那、そして高遠と飯田を中とする三百年の封建社会の文化の一つの現れがあるという感じがするのである。
土間が広く、上伊那でトオリ、下伊那でニワという。それが裏へ通っており、イロリなどのある間-上伊那でダイドコという-が広く、その土間と並んで、マヤとその奥にコマヤ、ツキヤなどと呼ばれている物置がついているという作りは、秋の収穫作業などこの土間とダイドコでなし、物置に収めるといった構想が元になっているのであろう。
火災の難を考えて土蔵はなるべく母屋と離れて建て、風が強いため、屋根棟は低くしたいので柱丈は九尺から一丈という低いものとし、草屋根の家では多く防風の木立を南や北などの風衝側に持って屋根を守っている。したがって、カヤ屋根の家の屋根裏利用のため、窓を設けるといった家構はほとんど見られなく、ごく近年養蚕の影響で改造されたものを、はなはだまれにみる位なものである。
家の南と北に生垣や防風樹を持ったり、土蔵の南と北の白壁にシブキ除けをびっしり打ってあったりするのも伊那谷-ことに天竜川沿いの南北性の風の卓越している土地の一景観である。古くは多かった草屋根が、その草野の減少と共に、山林の多いことにより、早く板葺石置屋根に変わったということも伊那の特色ということができるであろう。
同じ伊那でも赤石山麓の中央地質構造線に沿う地帯の民家はその谷の狭隘性に伴い、自ずから特色を生み、また高遠文化圏の上伊那と、飯田文化圏の下伊那とはまた多くの差異を生んでいて興味深い。
(昭和三十年十月二日朝記『伊那』昭和三十年十一月号掲載)