稲扱きは古くはコバシで扱(こ)いたが、マンガとなり回転脱穀機となった。
よく干した籾を籾摺臼にかけて臼挽きする。扱いたものは唐箕にかけてヌカをとり、万石にかけて籾と玄米とを選り分け、玄米は米俵へ入れる。近年は俵は麻袋となり紙袋となった。袋入りは扱いよく米のこぼれることがない。
センバコキ(千歯稲扱) 辰野町(炉端会) 昭和43年10月
千歯扱きは江戸時代後期より使われたが、大正の中頃から、回転稲扱機(いねこきき)が出てそれに取って代わった。
わら打唄 箕輪町中曽根 昭和36年10月
わら細工をする為にわらをやわらかくする作業をする時、調子をとって唄をうたう。
穂くずたたき 辰野町 昭和43年10月
千歯扱きや足ふみ脱穀機でこいたあと穂についた籾をたたいて落す。それをふるって屑や藁を取り除く作業。
もみすり 辰野町 昭和43年10月
籾(もみ)のモミ殼をとり、玄米にするのに用いるすりうす。
もみすり 辰野町 昭和43年10月
一定の方向に回転する挽(ひ)き臼(うす)は、県の南部地方で早くから使われた。
まんごく 長野市戸隠 昭和43年11月
スルス(摺臼)で挽いたものを唐箕にかけてヌカ(籾殻)を取り、マンゴク(万石)の荒通し、清通(きよとお)しなどへかけて米コサエ(米拵え)する。
俵造り 辰野町 昭和43年10月
俵に玄米をつめて、最後の仕上げにナワをかけている。うす引きに大勢の人を結(ゆい)にしてたのみ、うす引きの終ると同時に俵詰めも終るような手順がとられていた。
俵の積出し 辰野町 昭和43年10月
馬車に米俵をつむのに滑車を使って積んでいるところ。
わら干し 辰野町 昭和43年10月
わらを田んぼにひろげて干す。
わらにご 伊那市西町大坊 昭和44年3月
芯に棒を立てた方がわらにごとしてはしっかりする。藁は家畜の飼料・冬の藁仕事等の用途のためにわらにごにして貯えた。
水車 阿南町和合 昭和33年7月
水車 伊那市美篶 昭和28年4月
流れを利用した水車を回し、杵を上下して穀物を搗き、あるいは歯車で石臼をまわして粉をひく。米や麦の精白や製粉になくてはならないものであった。また藁もたたいた。
足踏臼 辰野町 昭和43年12月
精米にするために使う。
苗篭 宮田村田中 昭和49年6月
割り竹の皮つきの厚いので粗い亀甲に編んだ大きい篭はショイカゴとして使われる。
稲刈舟 中川村片桐 昭和33年4月
三尺幅に長さ6尺、沼田の稲刈に使った。これを二人で引き、刈った稲把をのせて運んでいく。
農具
稲作の農具も移り変わった。ふるくは深く耕すために踏みスキを用いたが、後にはクワが中心になった。田起こしはマンガから馬耕スキに、田の土を水で柔らかにする代かきマンガは田車に変わった。苗が伸びて青田になってくると、人手で田の面(おもて)をかいて田の草取りをしたが、これも除草機を用いるようになった。モミは摺(す)り臼(うす)でひいて玄米にしていたが、同方向に回るモミ摺り臼で能率が上がるようになる。米とモミ殼(ヌカ)は唐箕(とうみ)にかけて選別し、それを千石とおしにかけてモミと米を選別し、はじめて米が俵につめられるのである。
田舟 辰野町 昭和43年5月
湿田で苗や肥料、稲などを運んだり、田の低いところへ泥土などを運ぶのに使用した。
田の鋤 中川村片桐 昭和33年4月
作鍬(さくぐわ)を風呂(ふろ)という木の台に鍬先(くわさき)という鉄のサキをつけて作り、柄(え)は風呂についている。
田下駄 辰野町 昭和43年5月
刈敷きを入れた水田で、田植えをする前に、とび出ている細いそだを踏み込み、下駄は重いので、前に縄をつけ、引き上げながら歩く。
山畑 上村下栗 昭和33年12月
急傾斜の山畑。山側へ土を上げながら耕す。
イモ掘り 駒ケ根市赤穂大徳原 昭和41年8月
鯉子の池 駒ヶ根市中沢 昭和52年5月
6月田植の終った頃、鯉仔(こいご)を買い、田へ放し、9月彼岸ころまで育て、そこで鯉取りをして池へ移す。次の二年鯉からは池で飼い三歳(さんぜい)鯉といえば、売り物になる。
鯉桶 駒ヶ根市中沢 昭和47年7月
鯉子(こいご)を入れて運ぶ桶。