山仕事

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伊那谷のような山間村では、山仕事は重要な生業であった。一定期間山に入って仕事をし、生計をたてていた人々に、杣(そま)や樵(きこり)・炭焼きなどがあった。また、各地の山林を移動しながら、轆轤(ろくろ)を使って木椀や盆などを作った木地屋(きじや)と呼ばれる集団があった。
 
木材のずり引き 長谷村非持 昭和47年6月
木材にキマワシを打って馬に引かせる方法をズリビキという。もう一つジゴロビキがある。両方とも山の傾斜地の木材を引き出すのに用いられる。

 
木馬
 普通のソリと形態的な違いはないが、横木を梯子(はしご)状に連結して材木を乗せ、盤木(ばんぎ)という小丸太を敷設した上を滑走させて搬出する。適当な勾配による木馬運搬は、安全性と経済性に富み、広く行われた。
 
土浦材木所 木曽郡王滝村土浦 昭和33年10月
ゆるい傾斜をもつ道を作りそれに盤木を並べ木馬道とよんでいる。木馬に木材を積んで盤木の上をすべらせて人力で運び出す。

 
木材の運搬 伊那市長谷浦 昭和42年8月
山奥にまでトラックの通る道が開けると共に材木は、流送(りゅうそう)から安全で損傷が少なく、効率的なトラック輸送に急速に変わって行く。

 
ワトビ・大トビ 飯田市南信濃和田 昭和46年12月

 
貯木場 諏訪湖 昭和46年12月
昭和19年に遠山川水力発電所が出来て流送が困難になった為作られた貯木場は、トラック輪送の為のものと思われる。
まだ、山を守る人々が山仕事に励んでいた時代がしのばれる。

 
天竜川を下る筏 天龍村平岡 昭和30年8月
飯田線伊那小沢駅にて。

 
筏流し
 木材を搬出するのに河川を利用する方法には、堰(せき)流し・管(くだ)流し・筏(いかだ)流しなどがある。筏は専門の筏師の手によって、川幅や水量によって組まれる。筏師は、筏の大小により二人、三人と乗り込み、サキノリ、ナカノリ、アトノリに分かれ、舵(かじ)と水棹を操って流してゆく。
 
筏陸上げ 下伊那郡天龍村平岡鶯巣 昭和33年8月
天竜渡-遠山川の天竜川への渡合、この藤原口(ふじわらし)の人きな淵へ、木材をひきこんでここで筏に搔(か)く。天竜川に向けて、かこいこむように、ウキを張る。これは、木材を、ヒッカケといって、順次にのせかけるようにしてつなげ、これで淵の水面を囲う。このウキのうちへ、毎日、筏に搔くだけずつ、木材を溜め、この材へ乗って、トビで搔きよせて、筏に搔く。本山尺〆の16尺5寸は筏を組むにいい。この二丈(ふたたけ)が、筏一ぱいのながさになる。

 
狩猟姿 飯田市南信濃八重河内 昭和34年4月
「なべづるわらじ」に「かさわら」「ぶどうはばき」で足ごしらえをし、「しょいぶくろ」と「わかんじき」を背負って、春の雪山へ出かけるところ。

 
猟師
 古くから山深くはいったものは猟師。それも熊・カモシカ・鹿・猪を追う大猟の猟師たちである。山の畠に出て、豆や栗、そばなどを食い荒す猪や鹿、多くの村では猟師を頼み、夏から秋にかけて毎日山へ入ってもらった。これらの猟師も、畠の取入れが終るころから、妻恋う鹿の声をたよりに山深く入り、木の実の稔る頃に出歩く熊、雪の中に餌を求めて歩いているカモシカをねらう。
 
鳥をとる仕掛け 宮田村 昭和31年11月
 
いのしし 飯田市南信濃和田 昭和52年12月
獲物の猪をとった時、小さいのはそのまま背負って来るが、大きいのは直ぐ腹を割る。ハラバタ(内蔵)のうち、臭いところ-大腸・小腸-はそこで犬にわけてやる。

 
玉ぐすり入れ 根羽村 昭和46年8月
猟師の大切な携帯品。

 
小刀(こがたな) 根羽村 昭和46年8月
猟師の必需、携帯品。

 
栗拾鑑札 高遠町長藤 昭和41年9月
栗はかつて飯と一緒に炊いて米の不足を補う重要な食糧であった。そのため、高遠町弥勒・的場地区では、共有山に栗を植え他の者の入山を許さないためにに栗拾鑑札を発行した。
     腰びくに入会の鑑札をつけてゆく栗の一粒もかりそめならず  雅重

 
ワカンジキ 北安曇郡小谷村 昭和46年4月
少し堅くなった雪の上や、傾斜地を歩くのに使う。

 
ワカンジキ 根羽村 昭和46年8月
伊那地方では、猟師の人たちは深い雪に陥らないためにこれをつけて行動する。

 
ワカンジキ作り 伊那市西町大坊 昭和46年4月
伊那市大坊天狗平の猟師斧研(おのとぎ)国衛氏は青年の頃から数十年続けて来た猟師で、ワカンジキを作っている。