人形芝居

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歌舞伎の流行につれ、淡路人形・文楽人形などの操り人形芝居が入ってきて、村の産土神の祭りに奉納されるようになったもので、今に伝承されているものが伊那谷に多い。上郷町の黒田人形には人形芝居専用の舞台があり、今も若い人たちに伝承されている。飯田市今田の今田人形、阿南町の早稲田人形、箕輪町上古田の古田人形などがよく伝承されている。
 
古田人形 箕輪町上古田 昭和42年7月

 
古田人形 箕輪町上古田 昭和34年10月
上伊那郡箕輪町上古田で行われ、風よけ祈願のため人形芝居を奉納したのが起こりで寛保三年(1743)人形をととのえ、盛んとなり、現在有志によって行われている。

 
大田切人形 宮田村大田切
宮田村大田切に伝えられている大田切人形は、幕末の頃、大阪文楽座の吉田金吾が旅の途次大田切の地蔵堂に住みついたのが縁となって、その指導で熱心な弟子がふえ、人形芝居が盛んになった。金吾は明治16年70才で没し、大田切に墓がある。

 
大田切人形 宮田村大田切

 
横前人形 中川村 昭和37年10月
中川村横前に人形浄瑠璃が始まったのは文久年代か元治の頃と推定されている。横前人形座は昭和37年頃まで上演していたが、関係者が故人となり、いまは上演されていない。

 
横前人形 中川村 昭和37年10月

 
今田人形
 天竜川の東、飯田市竜江に約二七〇年前から続けられている人形浄瑠璃。宝永元年(一七〇四)氏神さまに初めて奉納されたという古文書が残っている。

 
今田人形 飯田市竜江 昭和34年

 
黒田人形
 上郷町下黒田。元禄年間に始まり、鎮守の諏訪明神境内に舞台を建て、明神講という氏子集団が中心となって、年々の例祭に上演してきた。さらに淡路の人形つかい、大阪の芸人を迎え、天保十一年(一八四〇)、かわらぶきヒノキ造り二階建ての人形専門の舞台をつくり、明治に入って文楽人形の名手吉田金吾を迎え、技量を高める。若い衆が日ごろの修練の腕前を、四月十二日の春祭りに上演するならわし。主(しゅ)づかい・左手づかい・足づかいの人形づかいが一体となってすばらしい。
 
黒田人形 上郷町 昭和34年

 
千代野池の人形頭(かしら) 飯田市千代 昭和30年6月
今は行われていないが、古い人形の頭が残されている。

 
早稲田人形
 天保十年(一八三九)頃より盛んになったと伝えられている。ここでは「三番叟」の人形を神聖視し、祭礼のとき、その頭(かしら)を神前に飾り、式典のあと拝殿でその頭を舞わしている。また芸に家筋があり、義太夫、三味線、男役、女役の演技が、それぞれ特定の家に伝承されていた。
 
早稲田人形 下伊那郡阿南町西條 昭和34年4月