明治三七年(一九〇四) | |
七月六日 | ● | 長野県上伊那郡宮田村田中の農家に父竹次郎・母いのの次男として生まれる |
大正一〇年(一九二一) | 一七歳 |
四月 | ● | 宮田尋常高等小学校准訓導となる |
大正一一年(一九二二) | 一八歳 |
| ● | 郷土科の授業のために三沢勝衛氏に教えを請う |
昭和四年(一九二九) | 二五歳 |
| ● | 石井鶴三氏の彫塑講習を受講する |
昭和五年(一九三〇) | 二六歳 |
三月三一日 | ● | 西春近尋常高等小学校訓導となる |
昭和六年(一九三一) | 二七歳 |
三月三一日 | ● | 赤穂尋常高等小学校訓導となる |
昭和一〇年(一九三五) | 三一歳 |
九月 | ● | 民間伝承の会(後の日本民俗学会)へ入会する |
昭和一一年(一九三六) | 三二歳 |
六月二一日 | ● | アチックミュージアムに渋沢敬三氏を訪ねる |
六月二二日 | ● | 徳川林政史研究所に所三男氏を訪ねる。この年から昭和一六年まで『藤沢村史』の編纂に参加 |
昭和一三年(一九三八) | 三四歳 |
六月九日 | ● | 仁科政視氏とともに東高遠で調査 |
昭和一六年(一九四一) | 三七歳 |
一〇月 | ● | 『山村小記』出版 |
昭和一八年(一九四三) | 三九歳 |
一一月二五日 | ● | 『続山村小記』出版 |
昭和一九年(一九四四) | 四〇歳 |
一一月二三日 | ● | 有賀喜左衛門氏の講演を聞く |
昭和二三年(一九四八) | 四四歳 |
三月三一日 | ● | 長藤中学校長となる |
六月 | ● | 山村民俗の会に入会する |
昭和二七年(一九五二) | 四八歳 |
四月 | ● | 長野県文化財専門委員となる(~五一年三月) |
九月二二日 | ● | 井之口章次氏と藤沢村・伊那里村調査(~二五日) |
一〇月一九日 | ● | 柳田国男氏を成城の民俗学研究所に訪ねる |
昭和二九年(一九五四) | 五〇歳 |
四月一日 | ● | 南箕輪中学校長となる |
昭和三一年(一九五六) | 五二歳 |
四月一日 | ● | 伊那中学校教諭となる |
| ● | 『上伊那誌』編纂委員となる(~五五年三月) |
昭和三四年(一九五九) | 五五歳 |
四月一八日 | ● | 遠山村八重河内で千葉徳爾氏とともに鎌倉福次郎氏に狩猟談を聞く |
昭和三五年(一九六〇) | 五六歳 |
三月三一日 | ● | 依願退職する |
昭和三八年(一九六三) | 五九歳 |
一〇月 | ● | 宮田村教育委員となる(~四三年九月) |
昭和四二年(一九六七) | 六三歳 |
一一月三日 | ● | 県教育委員会より教育表彰を受ける |
昭和四三年(一九六八) | 六四歳 |
六月一五日 | ● | 『信濃民俗記』出版 |
一〇月 | ● | 宮田村教育委員長となる(~六〇年六月) |
昭和四四年(一九六九) | 六五歳 |
一二月五日 | ● | 『続信濃民俗記』出版 |
昭和四五年(一九七〇) | 六六歳 |
一一月三日 | ● | 信毎文化賞受賞 |
一一月七日 | ● | 柳田国男賞受賞 |
昭和四七年(一九七二) | 六八歳 |
九月七日 | ● | 『長野県史』民俗資料調査委員(五五年からは民俗編纂委員と改称)となる |
昭和四八年(一九七三) | 六九歳 |
十月十日 | ● | 信州大学講師(数年にわたって) |
昭和五一年(一九七六) | 七二歳 |
四月一日 | ● | 『宮田村誌』編纂委員となる(~五八年三月) |
九月一一日 | ● | 市町村教育委員会連絡協議会より表彰を受ける |
昭和五二年(一九七七) | 七三歳 |
四月二九日 | ● | 勲五等旭日賞を受ける |
昭和五九年(一九八四) | 八〇歳 |
一一月一五日 | ● | 『伊那農村誌』出版 |
昭和六一年(一九八六) | 八二歳 |
一月四日 | ● | 坂部冬祭り調査中倒れ、阿南病院へ入院 |
| ● | この年日本民俗学会名誉会員となる |
昭和六二年(一九八七) | 八三歳 |
九月三日 | ● | 中日新聞社会功労賞受賞 |
平成元年(一九八九) | 八五歳 |
三月一六日 | ● | 秩父宮記念学術賞受賞 |
平成二年(一九九〇) | 八六歳 |
一月二四日 | ● | 死去 |
一月二七日 | ● | 葬儀 戒名 曠仙院探玄懐真清居士 |