古事記に伝わるちぬの海(こじきにつたわるちぬのうみ)

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 むかしむかし、日向(ひゅうが)の国(宮崎県)に、五瀬命(いつせのみこと)と日の神子(ひのみこ)(神倭伊波礼毘古命(かんやまといわれびこのみこと))がおりました。ふたりはこの国をおさめており、なにかあると、相談して、助けあっておりました。
 あるとき、ふたりは高千穂宮(たかちほのみや)という場所で、どのようにすれば、もっとうまく国がおさめられるだろうか、という話しあいをしました。そして、いろいろと話しあった結果、「もっと東の地に、都を作るべきだ」という答えにたどりつきました。

 ふたりはさっそく日向を出発し、都にふさわしい地をもとめて、東へと旅立ちましたが、理想の地はなかなか見つかりませんでした。
 そこで、さらに東へ東へと進み、浪速渡(なみはやのわたり)というところを通り、白肩津(しらかたのつ)という港までやってきました。
 ここまで平和にやってきた五瀬命と日の神子でしたが、ここにきて、日の神子をこころよく思わない者があらわれました。その者の名は、登美毘古(とみびこ)(登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ))といいました。
 登美毘古は軍をひきつれ、船にむかって攻めてきました。そこで日の神子たちは用意してあった楯をとり、船からおりて戦いました。

 このことがきっかけで、この地は楯津(たてつ)といわれるようになり、いまでも日下(くさか)の蓼津(たでつ)として名前が残るようになりました。
 楯津の戦いは、さらにはげしくなり、とうとう登美毘古のはなった矢が、五瀬命の腕にささりました。
 五瀬命は深い傷をおいながらも、
「われわれは日の神の子なのだから、敵を東にして、日の出の方向にむかって戦いに行くのはよくなかった。だから、登美毘古のような奴から矢傷をもらってしまったのだ。いまからでも遅くはない、敵のうしろにまわって、太陽を背にして味方につけよう。そして、敵軍に勝つのだ!」
 と言葉にして誓い、登美毘古の攻撃をかわしながら、船を南へ南へと進めました。
 五瀬命は南へ進む途中、海に入り、血のついた手を洗い、痛む傷口を清めましたが、傷はよくならず、とうとう紀伊(きい)の国(和歌山県)で、おたけびをあげて息絶えてしまいました。

 そして、それ以来、五瀬命が血を洗い清めたこの海のことを、血沼海(ちぬのうみ)とよぶようになりました。
 大阪湾(おおさかわん)の昔々の話です。
 
(『古事記』「神武東征(じんむとうせい)」より抜粋)

 
【まめちしき】
◇『古事記』とは、現存する日本最古の歴史書です。七世紀後半に天武(てんむ)天皇の命令によって、作られたといわれており、天皇を中心にした日本統一の話が書かれています。
◇ここに登場する日の神子とは、のちの神武(じんむ)天皇で、初代天皇として、日本を治めたといわれています。
◇国を治めるのにふさわしい土地を求め、東へ東へと旅立った日の神子の話は、とくに「神武東征」とよばれています。続きが気になる人は、『古事記』の本がたくさん出ていますので、そちらを読んでみてください。