孝女のお照(こうじょのおてる)

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 むかしむかし、横山村(よこやまむら)の坪井(つぼい)というところに、ある夫婦がくらしておりました。
 ふたりはとても仲がよく、貧しくとも幸せにくらしていましたが、ただひとつ、子どもがいないことだけをさみしく思っていました。
 ですので、ふたりはいつも槇尾山(まきおさん)の観音さまに、
「どうか私たちに子どもをさずけてください。」
 と、お願いしていました。
 
 そんなある日。
 いつものように、夫婦が槇尾山のお参りを終え、橋の近くまでやってきたときのことです。
 どこからか、
「おぎゃあ、おぎゃあ。」
 と、赤ちゃんの泣き声が聞こえました。
 ふたりが泣き声をたよりにさがしてみると、草むらのかげで泣いている女の赤ちゃんを見つけました。
 赤ちゃんは編み笠のなかで泣いていて、そこには赤い小袖と、和歌が書かれた一枚の短冊がそえられていました。

 かわいそうなことに、どうやら赤ちゃんは捨てられてしまったようです。
「この子は、観音さまが私たちにさずけてくれた子にちがいない。」
 そう思った夫婦は、赤ちゃんを家につれて帰ることにしました。
 お照(てる)と名づけられた赤ちゃんは、大事に大事にそだてられ、とても心優しい娘に成長しました。
 
 こうして、ときがたち、お照が十三歳になったある年のことです。
 両親が続けて病にかかってしまいました。
 お照の看病もむなしく、最初にお母さんが亡くなり、お父さんも亡くなろうとしていました。
 お父さんはお照を枕元によび、自分たちは本当の親ではないこと、お照は橋のたもとに捨てられていたことなどを話しました。
 話を聞いたお照は涙をながし、ほんとうの子どもではない自分をいままで大事にそだててくれた両親に、とても感謝しました。
 お父さんは、お照が捨てられていたときにあった赤い小袖と短冊をお照に託すと、それからしばらくして、しずかに息をひき取りました。
 ひとりぼっちになってしまったお照は、ふかく悲しみながらもお父さんのお葬式を立派にすませました。
 そして、いままで住んでいた家を出ると、両親のお墓の近くに小さな小屋を建て、そこにひっそりと住みはじめました。
 
 毎日せっせと畑仕事をしながら、両親のお墓参りをして、ひとりで暮らしていたお照は、ある日、旅の者からとある話を聞きました。
 その話とは、お金持ちの長者が、ご先祖の供養のために高野山(こうやさん)に灯ろうを一万個も奉納した、というものでした。

 親孝行のお照は、自分も両親のために灯ろうを奉納したいと思いましたが、貧しいお照には灯ろうを買うお金などありません。
 お照が途方にくれていると、旅の者は、
「あんたのきれいな髪を売ってくれるなら、高く買い取ってあげるよ。」
 と言いました。
 お照は悩みました。女の人にとって、髪はとても大事なものだったからです。
 ひと晩考えぬいたお照は、やがて心を決めました。
 次の日の朝、お照は両親のお墓の前できれいな黒髪をばっさりと切ると、それをお金にかえてもらいました。
 そうしてやっと、灯ろうひとつ分のお金を手に入れ、そのお金を持って高野山へと旅に出ました。
 
 三日三晩歩き続け、お照はようやく高野山のふもとにたどり着きました。
 しかし、いざ登ろうと、山の入口まで行ってみると、
『女人(にょにん)入るべからず』
 というはり紙がはられていました。
 むかしは、女の人は高野山に入ってはいけないきまりになっていたのです。
「やっとここまできたのに、山に入ることができないなんて。」
 心身ともに疲れきっていたお照は、さめざめと泣いてしまいました。
 
 そのころ、高野山では、あるお坊さんの夢に祈親上人(きしんしょうにん)があらわれました。
 夢の中の祈親上人は、
「山を下りたところに、ひとりの女がいる。その女を助けてあげなさい。」
 と、おっしゃいました。
 お坊さんは不思議に思いましたが、日頃からお参りしている上人さまが言うことならばと山を下りて行き、そこで泣いているお照を見つけました。
 この女が上人さまのおっしゃっていた人にちがいないと思ったお坊さんは、お照から話を聞きました。
 お照の話を聞いたお坊さんは、親を思うお照のやさしい心に感動し、
「では、自分が代わりに高野山に登って灯ろうを奉納してきてあげよう。」
 と言いました。
 そのうえ、女の人でもお参りすることができる場所までお照を連れて行ってくれました。
 お照は両親のためにお参りできたことを喜び、お坊さんにとても感謝しました。
 お照の大事なお金をあずかったお坊さんは、それを持って山に登りました。そうして高野山のお寺にたどり着くと、あずかったお金で小さな灯ろうをひとつ手に入れ、祈親上人が灯したという灯ろうのそばに、お照の灯ろうをそっと置きました。
 
 やがて、高野山ではお参りの時間になり、灯ろうに火が灯されました。
 長者の一万の灯ろうとともに、お照の小さな灯ろうにもほのかな光が灯りました。
 それを見ていた長者は、ふと、お照の灯ろうに気づき、
「あのすみにある小さな灯ろうはなんだ?」
 と、側にいた者にたずねました。
「あれは両親を弔うため、ある女が供えたものです。」
 それを聞いた長者は、
「あんなみすぼらしい灯ろうひとつ供えたところで、なんの役にたつものか。消してしまえ。」
 そう言って、長者は、お照の灯ろうを消そうとしました。
 そのときです。急に強い風が吹いたかと思うと、長者の一万の灯ろうの火が瞬く間に消えてしまい、あとには祈親上人の灯ろうと、お照の灯ろうだけが、しずかにやさしく灯っておりました。

 これは仏さまがなさったことにちがいない、と思った長者は、お照の灯ろうを消そうとした自分の行いを恥ずかしいと思い、ふかく反省しました。
 そうして、ふたたび一万の灯ろうに火を灯すと、今度は消えることなく、明るくかがやき続けたということです。
 
 このことから、お照の灯ろうは〝貧女(ひんにょ)の一灯(いっとう)〟とよばれるようになりました。
 その火は今も変わらず、かがやき続け、お照の親を思うやさしい心とともに語りつがれています。
 
 無事に灯ろうを高野山に供えることができたお照は、その後、尼になり、そだててくれた両親と、生き別れた両親のために、毎日お祈りをして暮らしていました。
 そんなある冬の日、お照はお寺の前で浪人が倒れているのを見つけました。
 お照は浪人を寺に連れて帰り、親切に手当てしました。
 やがて元気になった浪人は、お照に礼を言うと、ぽつりぽつりと自分のことを話し始めました。
 浪人は、むかし、やむにやまれぬ事情があって、このあたりで赤ん坊と別れたことや、その赤ん坊に赤の小袖と一枚の和歌を託したことなど、自分の身のうえをすべて話しました。
 話を聞いたお照は、そだてのお父さんが亡くなる間際にわたしてくれた小袖と和歌のことを思い出しました。そこで、お照も自分のことを浪人に話しました。
 話を聞いた浪人もお照も、おどろきました。
 なんと、浪人はお照のほんとうのお父さんだったのです。
 お照とお父さんは不思議なめぐりあわせに感謝し、涙を流して再会を喜び合いました。
 
 その後、お父さんもお坊さんになり、世の中のために毎日お祈りをしてすごしました。
 お照は里の人々に慕われ、敬われながら、それからの人生を末永く送ったということです。
(坪井町(つぼいちょう)周辺のはなし)


 
【まめちしき】
◇高野山とは、和歌山県北東部にある標高千メートル前後の山々のことをいいます。816年に弘法大師(空海)が嵯峨(さが)天皇より許可をもらい、真言密教の修業の場としました。
◇祈親上人(生没年?―1047)は、平安時代中期の僧です。六十歳(一説には六十二歳)のときに高野山へのぼり、その荒廃したようすに嘆き、再興に尽くしたといわれています。
◇「孝女のお照」の話は、別名で「貧女の一灯」や「貧者(ひんじゃ)の一灯」ともよばれることがあります。