光明皇后伝説(こうみょうこうごうでんせつ)

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     1.鹿から生まれた女の子
 これは和泉市国分町(こくぶちょう)のあたりに伝わる、今から千年以上もまえのお話です。
 国分村(こくぶむら)(今で言う国分町)の近くに、白瀧山(しらたきさん)という小さな山があるのを知っていますか? むかし、そこでひとりのお坊さんが修行をしていました。智海上人(ちかいしょうにん)という徳の高いお坊さんで、人からも動物からも好かれる人でした。
 智海上人は山の中のお堂で経をとなえたり、仏さまにおいのりをしたりしていました。
 
 ある日、智海上人が、お堂から少しはなれた山の中で修業をしていたときのことです。急にむずむずとしてきました。小便がしたくなってきたのです。
「むぅ、これはこまった。」
 近くには便所もなく、間に合いそうにありません。しかたないので、智海上人はがけの上から小便をしました。
「ふぅ、まにあったわい。」
 すっきりした智海上人は、そのまま立ち去りました。
 
 さて、ちょうどそのがけの下に、一頭の女鹿がいました。お堂の近くに住み、智海上人ともなかよしだった鹿でした。
 鹿はがけの下で休んでいましたが、ふと、のどがかわいてきました。
「ああ、水が飲みたい。けれど水たまりも近くにないわ。どうしましょう。」
 困っていると、なんと空から水がふってきました。ふしぎなことに、空は晴れていたのにそこだけ水がふってきたのです。
「あら、これはよかった。」
 空からふってきた水は智海上人の小便でしたが、鹿はそれを知りません。ふってきた水は水たまりになったので、鹿はペロペロとそれをなめました。
「へんなあじだけど、まあいいわね。」
 のどのかわきもなくなり、鹿はまたねころびました。
 
 それから何か月かたったころ、女鹿に不思議なことが起きていました。がけの下でおしっこをなめた日から、すこしずつふくらんできたお腹が、すっかり大きくなってしまったのです。
 最初は「ふとったのかな?」と思っていましたが、お腹はさらに大きくなっていきます。そしてある日、鹿は元気な赤ちゃんをうみました。
 えんえんと泣く赤ちゃんを見て、鹿は驚きました。なんと鹿の子どもではなく、人間の子どもだったからです。

「子どもがうまれたのはうれしいけれど、私は鹿。人間の子どもなんて、そだてられない。どうすればいいのかしら。」
 こまった鹿は、なかよしの智海上人にそうだんしました。
 智海上人は鹿の話をきき、ふびんに思いました。
「なんとかしてやりたいが、わしも修行の身。あずかることはできん。」
「しかしこの子がかわいそうです。」
「そうじゃな。よし、近くの村に知り合いの夫婦がいる。彼らにそだててもらうことにしよう。」

 智海上人は赤ちゃんをだいて、近くの室堂村(むろどうむら)へ行きました。そこには、智海上人となかよしの農家の夫婦がすんでいました。
 赤ちゃんのことを聞いた夫婦は「なら、私たちがそだてましょう」とこころよくあずかってくれました。
 
 農家の夫婦にあずけられてから何年かがたち、赤ちゃんはかわいい女の子になりました。
 村の人は女の子をとてもかわいがりました。智海上人もかわいがり、ときどき村にやってきては、仏さまのことを教えました。さらに、母親の鹿もときどき山から下りてきて、こっそりと女の子をみまもっていました。
 こうしていろいろな人にだいじにそだてられ、女の子はすくすくと大きくなりましたが、ただ、ひとつだけこまったことがありました。
 鹿のお母さんから生まれたせいか、女の子の足首から先が鹿のような形をしていたのです。
「近所の人から変に見られてしまうかも。」
 そう思った農家の夫婦は、足にぴったりと合う、小さな布の袋をつくりました。これで足をかくしたので、変に見られることもありませんでした。
 足につける袋、ということで、これは足袋(たび)とよばれるようになりました。
 
     2.光る田んぼと、母親との別れ
 鹿からうまれた女の子が十三歳になったある日のことです。
 女の子はお手つだいで田んぼしごとをしていました。村の女の人たちにまじって、せっせとイネの苗をうえるしごとです。
 しごとはたいへんでしたが、そだててくれた夫婦のためにも、いっしょうけんめいお手つだいをしていました。
 その田んぼのよこを、牛車(ぎっしゃ)がゆっくりととおり、車のまどからひとりの男の人が顔を出しました。
 かれは都の貴族で、名前を藤原不比等(ふじわらのふひと)といいました。
 とてもえらい人で、天皇さまからじきじきに「和泉の槇尾寺(槇尾山(まきおさん))にお参りをしてきてほしい」とたのまれ、和泉に来ていました。その日はちょうど、槇尾寺から都に帰るとちゅうでした。
 藤原不比等はふと田んぼのほうを見て、おどろきました。なんと田んぼがキラキラ、キラキラと光っていたのです。
「なんと。あれはいったいなんだ。お日さまのように光っているではないか。」
 これは何かあると思い、藤原不比等は女たちに声をかけました。
「田んぼに何をうえているのだ?」
「ただのイネの苗ですが。」と女のひとりは答えました。
「そんなはずはない。キラキラと光るものが田んぼにあるのだろう。少しのあいだ、田んぼから出てはくれまいか。」
 女たちはうなずき、田んぼから出て、となりの田んぼへとうつっていきました。十人ぐらいの女たちがみんな出ていくと、田んぼの光はフッと消えてしまいました。
 そして今度は、女たちがうつった、となりの田んぼが光りだしたのです。
「なるほど。女たちの誰かが光っているのだな。」
 藤原不比等はそう思い、こんどはひとりずつ、田んぼのそばにある石の上にのってくれと頼みました。女たちは言うとおりに、ひとりずつ石の上にのっていきます。

 ひとりがのってはおり、のってはおりをくりかえし、ついに女の子の番になりました。女の子が石の上に足をのせ、よいしょと田んぼから出ると、キラキラとした光が女の子のもとに集まりました。
「なんと、この子が光っておったのか。」
 見れば、女の子はとてもかわいらしい顔をしていました。こんなにもかわいい女の子を、藤原不比等は都でも見たことがありません。
「そなた、ただものではないな。このあたりの生まれか?」
「はい、私はこのあたりで生まれました。」
「母はどこにおる。話してみたい。」
「ここにはおりません。母は鹿でございます。」
「鹿の子ども? それはきみょうな。だが、たしかにキラキラと光ることといい、かわいらしさといい、人間ばなれしておる。」
 藤原不比等はさらに女の子と話をしました。すると彼女はとても頭がよく、それでいて優しい女の子だとわかりました。 
「そなたのような者は、都に住んでこそふさわしい。どうだ、わしの子どもにならんか? そしてともに都へゆこう。」
「私が都へ、でございますか?」
「ああ。きっとそなたはすばらしい女性となる。」
 まよった女の子は、この話を智海上人や農家の夫婦に話しました。すると三人とも「都へ行ってしまうのはさびしいが、よいくらしができるのならば行ってみなさい」と答えてくれました。女の子は都へ行くことに決めました。
 いろいろな人にさよならを言い、ついに都へゆく日がやってきました。
 女の子は藤原不比等といっしょに牛車に乗っていました。そして、ゆっくりとうごきだす車のなかで、女の子は村でのことをふりかえっていました。都へいくのはいいけれど、生まれた場所からはなれるのは、やはりさびしいものでした。
 それに、女の子は自分のお母さん、つまり鹿のお母さんにさよならが言えていませんでした。お母さんのことを思い出すと、女の子はなんだかかなしくなってきました。
 そんなとき、ふと外から鹿の長いなき声が聞こえました。
「まさか。」
 女の子は車のまどを開け、外を見ました。
 外にはきゅうな坂道がありました。その坂のてっぺんにある石の上に、一頭の鹿がいるのを見つけました。
 ふしぎなことに、鹿はこちらをじっと見つめ、ぽろぽろとなみだをながしていました。そしてまたひとなきしました。
 お母さんだと、女の子はすぐに分かりました。
 鹿のお母さんが女の子をみおくりにきてくれたのです。
「お母さん、ありがとう。さようなら。」
 鹿のお母さんは坂のてっぺんで、めまいがするぐらいになきました。女の子も、車のなかでしずかになみだをながしていました。

 いまもこのわかれの場所は和泉にのこっています。鹿のお母さんが子どもをみおくったお話にちなんで、『女鹿坂(めまさか)』と呼ばれています。
 
     3.皇后さまに
 都へやってきた女の子には、まず名前がつけられました。光を出す子ども、ということで『光明子(こうみょうし)』となづけられ、藤原不比等の子どもとしてさらに大きくなりました。
 かしこく、きれいな女性となった光明子は、天皇さまの住む場所ではたらく女官になりました。そこで彼女はある男の人と出会いました。天皇さまの子ども、皇太子さまです。
 光明子は皇太子さまとなかよくなり、ついに結婚しました。
 その後、皇太子さまは天皇さまとなり、『聖武(しょうむ)天皇』とよばれるようになりました。そして光明子は、天皇家以外からはじめて選ばれた天皇さまの奥さん、つまり皇后さまになったのです。
 
 それだけのお人になったものの、彼女はふるさとのことを忘れていませんでした。
 鹿の足をかくすために、農家の夫婦がつくってくれた足袋は、大人になってもずっと使っていました。皇后さまがつけているということで、足袋はとてもゆうめいになり、日本でずっと使われるようになりました。
 そして智海上人の教えがあったので、仏さまのことをずっと信じていました。仏さまを日本のみんなに知ってもらおうと、聖武天皇さまといっしょに、日本のいろいろな場所にお寺をたてました。
 病気の人には薬をあげ、まずしい人には食べものをあげる、とてもやさしい皇后さまになりました。
 
 今でも彼女のことは『光明皇后』としてかたりつがれています。
(国分町(こくぶちょう)周辺)のはなし)


 
【まめちしき】
◇光明皇后(生没年701‐760)は、716年に首皇子(おびとのみこ)(のちの聖武天皇)の妃となった人です。施薬院(せやくいん)(病人に薬をあたえたり、貧しい人を養ったりする施設)や悲田院(ひでんいん)(孤児や身よりのない人を救う施設)を作り、東大寺や国分寺の創建に力をそそぎました。
◇智海上人(生没年不明)は、和銅(わどう)六年(713年)に白瀧山(しらたきさん)浄福寺(じょうふくじ)(和泉市国分町)を開いた僧として伝えられています。また、和泉市浦田町(うらだちょう)には智海上人と関係のある智海寺(ちかいじ)(知海寺(ちかいじ))というお寺が、その昔あったそうです。