葛の葉伝説~信太のやすな菊~(くずのはでんせつ しのだのやすなぎく)

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 むかし、聖(ひじり)神社周辺にある森を「信太(しのだ)の森」とよび、「お願いごとをするのなら、聖神社に行こう」という人がとても多かったころのことです。
 阿倍野(あべの)の里(今の天王寺あたり)に「安倍保名(あべのやすな)」という男の人がおりました。その保名が、聖神社に何日もかけて、お参りをしていたときのお話です。
 その日、いつものようにお参りをした保名は、信太の森を宿にむかって歩いていました。
 すると一匹のキツネがうずくまっているのをみつけました。めずらしいまっ白なキツネですが、その体に矢が一本刺さっていました。

「なんてことだ。狩人に狙われたんだね、かわいそうに。どれ、いま、矢を抜いてあげるから。」
 そう言って保名はキツネに近づきました。ところが、キツネはびっくりして、
 ガブリッッ!
 保名の腕にかみつきました。
「あいたたたっ! ちがうちがう、なにもこわいことなんてしない。ただ矢を抜くだけだから。このままではお前さんは死んでしまうよ。さあ手当てさせておくれ。」
 保名はやさしく言いました。キツネはわかったようなわかってないような顔でしたが、じっとおとなしくして保名に手当てされたのでした。
「これでちゃんと血が止まるだろう。もう心配ない。お行き。」
 保名が言うと、キツネはまっすぐ森へ帰っていきました。
 つぎの日、長いお参りを終え、阿倍野の家に帰ろうとした保名でしたが、疲れがどっと出てしまい宿で熱を出して寝こんでしまいました。おまけにキツネのかみ傷もズキズキと痛みました。
 何日かした、ある夜のこと。
 トントントンと、保名の部屋の戸を誰かがたたきます。外はまっ暗です。ここは知りあいもいない旅先、いったいこんな時間に誰だろう。
「どなたですか。」
「......道に迷ってしまい、やっとのことで、こちらをみつけました。寝る場所がなく、こまっておりますので、どうか一晩泊めていただけないでしょうか。」
 それは女の人の声でした。ここは広い広い信太の森です。さぞや心細かったに違いありません。

「こんな時間まで......それはなんぎをしましたね。どうぞお入りください。」
 保名は女の人を中に入れてあげました。見とれるほどきれいな人でした。女の人は保名の腕を見て言いました。
「まあ、ひどいおけが。熱もあるようですね。寝どこをかしてくれるお礼に看病させてください。」
 女の人は保名を看病してくれました。そのおかげですっかり元気になった保名は女の人になんどもお礼を言って、阿倍野の自分の家に帰っていきました。帰ってからもずっと、保名はその女の人のことを忘れることができませんでした。
(自分の用事もあっただろうに、何日もわたしの面倒をみてくれた。本当になんどお礼を言っても言い足りない。)
 毎日毎日、女の人のことを思っていました。
 そんなある日、トントントンと、保名の家の戸を誰かがたたきます。外はまっ暗。保名はまるであの夜のようだと思いながら戸のむこうに問いかけます。
「どなたですか。このような時間に何のご用でしょうか。」
「......葛の葉と申します。安倍保名さまに、会いにまいりました。」
 保名は返事もせずに、いそいで戸を開けました。そこにいたのは、まぎれもなくあのときの女の人。保名はうれしくてうれしくて、女の人をだきしめました。
「もう一度、あなたさまにお会いしたくてここまで来てしまいました。」
「わたしも会いたかった。来てくれてうれしいよ。」
 女の人の名前は「葛の葉」。わかっていることはそれだけでしたが、ふたりは夫婦になりました。

 月日が流れて、保名と葛の葉の間に男の子が生まれました。
 ふたりは男の子に「童子丸(どうじまる)」と名前をつけ、それはそれは大事に育てていました。
 葛の葉は機(はた)を織るのが得意で、織った反物がよい値で売れました。とても人気でたくさんの注文が入り、織っても織っても間に合いません。葛の葉は毎日毎日、夜通し機を織っていました。
 童子丸が七つになったある秋の日の夕方。この日も葛の葉は機を織っていました。けれども、ふっと眠気におそわれ機のうえに顔をふせて寝てしまいました。そこへ外で遊んでいた童子丸が帰ってきました。
「母さま、ただいまっ。」
 童子丸が声をかけますが、葛の葉は起きません。起こそうと近づいた童子丸は母の着物の裾から白くゆれるものを見つけました。
「母さま、しっぽ。」
 その言葉にはっとなり、葛の葉はとび起きました。

「これ、キツネのしっぽっ? 父さま父さまっ! 母さまにしっぽがはえたっ! キツネのしっぽ!」
「だめっ、童子丸っ、まちなさいっ!」
 葛の葉は止めようとしましたが、興奮した童子丸は保名のもとへ走って行ってしまいました。童子丸が息をきらせて保名を連れて戻ってくると、葛の葉は泣いていました。そして、ふたりにむかって言いました。
「保名さま、むかし、矢傷を負った白ギツネを助けたことをおぼえておいでですか。」
「信太の森にいたあの真っ白なキツネのことか。」
 保名は問い返します。
「はい、あの時のキツネがわたしです。」
 保名はおどろきましたが、なぜか頭のもう半分ではそうだったのか、と納得していました。
「あの時のご恩を返すためにと、あなたの前に現れました。ほんの短い時間で信太に帰るつもりでした。けれども毎日がとてもとても楽しく幸せで、童子丸もさずかることができました。
 ......もうずっとこのまま暮らして行きたいと願っておりましたのに。」
 葛の葉の涙は、ぬぐってもぬぐっても止まりませんでした。
「お別れでございます。正体を知られたからにはここにはもういられません。童子丸をどうぞよろしくお願いします。」
 葛の葉のまわりがうすく光りだしました。童子丸が母にかけよろうとしましたが保名が腕をつかみます。
「これまで本当に幸せでした。おふたりともどうか、末永くお元気で。」
 葛の葉はそう言うとお辞儀をしました。そして光が強くまたたいたかと思うと、次の瞬間、葛の葉の姿はあとかたもなく消えていました。
 あとには短冊が一枚。
 
  「恋しくば たずねきてみよ 和泉なる
           信太の森の うらみくずの葉」

 
 書き残された歌には、いつかふたたび家族に会いたいという願いがこめられていました。けれども、童子丸が母を見たのは、このときが最後でした。
 信太の森にひとりさびしく帰ってきた葛の葉は、朝も昼も夜も、小栗街道(おぐりかいどう)まで出てきては遠く阿倍野の里でくらす家族に思いをはせました。ふたりのことを思いながら通いつづけた道に、いつのころからか菊の花が咲くようになりました。その菊は「やすな菊」とよばれ、たいそう可憐な花でした。持って帰って庭に植えようとした人がたくさんいましたが、なぜかすぐ枯れて、結局その道にしか咲かないのでした。
 
 今ではもうその道も菊も、すっかり姿を消してしまいました。
(葛の葉町(くずのはちょう)周辺のはなし)


 
【まめちしき】
◇葛の葉伝説は、市内の伝説のなかでも、とくに有名なものの一つであり、いろいろな形でこの地に伝わっています。関係の深い信太森葛葉稲荷(しのだのもりくずのはいなり)神社には「信太の森の霊験記(れいげんき) 葛の葉姫」の話があり、境内には、葛の葉にまつわる「姿見(すがたみ)の井戸」や、「御霊石(みたまいし)」があります。
◇聖神社と信太森葛葉稲荷神社の間には、舊府(ふるふ)神社があり、白ギツネが狩人から逃げるために隠れた(または、化けた)といわれている石があります。
◇童子丸とは、安倍晴明(生没年921―1005)の幼名(ようみょう)(子どものときの名前)で、一説には王子丸(おうじまる)ともいわれています。