友治とその子孫

 友治は、小田讃岐守氏治の側室(芳賀喜兵衛貞利娘[芳賀局])より生まれ、貞利と氏治の間で嫡子とする約束がされていたが、正室(水戸城主江戸但馬守藤原忠通娘)に彦太郎守治が生まれたために家督を譲られず、祖父と共に小田原の北条氏康を頼り、氏康の養育を受けた。のちに母方の一族芳賀伯耆守の聟になり、北条家の臣として数々の戦いを経て八田左近と改名した。
 天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐により流浪し、従兄弟速水甲斐守の力添えで関白秀次の近臣として文禄の役(1592)では船奉行を勤め、勢州員弁郡羽田村に三千百石を拝領したが、秀次の失脚により領地も手放すことになる。
 慶長3年(1598)堀尾茂助の口添えにより徳川家康に拝謁し結城秀康に仕えるが、その後浪人して同9年(1604) 2月京都にて病死した。嫡子左京亮義治は、叔父速水甲斐守を頼り豊臣秀頼に仕え、大阪冬・夏両陣(1614~15)に戦い負傷し、福島左衛門太夫正則に客分として広島に招かれ、元和2年(1616)2月29日病死した。
 次男友重は、北条氏の臣宇都宮右兵衛尉為明(後に波賀喜兵衛と改める)の養子となり宇都宮(波賀)家を相続していたが、養父に実子が出生したために家督を譲り、濃州鷹巣城主徳永法印蔵昌に仕えて関ケ原・大阪冬の陣を戦った。その後、父左近と親交のあった京都所司代板倉伊賀守の家来となるが、板倉の怒りを買い浪人し、桑名藩主松平定勝・定行親子に仕え、伊勢桑名から伊予松山への所領替えにも同道した。(小出四郎兵衛あて自薦書より)また、友重は小幡勘兵衛景憲の惣領弟子として名声のあった小早川式部能久(讃岐高松藩主の客分)に甲州流軍学を学んでいる。
 真知の嫡子朝栄(真知の弟勝明の長男)は、松山藩士として江戸藩邸に任え、祖父友重と同じ甲州流軍学を小幡孫次右衛門憲行に師事して学び免許状を授与され、甲州流軍学を他藩の人々にも教授し江戸で死亡している。また、元禄15年(1702)12月14日吉良上野介義央を襲い、主君浅野内匠頭長矩の仇を討った赤穂藩士46名は熊本藩細川家・長州藩毛利家・岡崎藩水野家・伊予松山藩松平家の4家に引き渡された。この時、伊予松山藩が預かった大石主税・堀部安兵衛らの引き取りから処分決定までの接待、翌2月4日に処分が決定すると切腹の介錯を朝栄が行っている。(「赤穂義人纂書補遺」収録『波賀清太夫覚書』より)
 朝栄の嫡子、成朝もまた甲州流軍学を教授しているが、その他の文書類に『大星之伝』『葵大星伝』『三種神器秘伝』等があり、これらは大星神軍伝兵法と関係の深い山崎闇斎の垂加神道の伝書であるため、垂加神道伝授の師家でもあったと思われる。
 この後子孫は代々、甲州流兵法学者として幕末まで名を残している。
 常総市が所蔵している資料は、主に朝栄・成朝の残した物が多く、古学の伊藤東涯や岡西惟中(一時軒)などの書簡等もあり、幅広く交際していたと思われる。また、成朝の収集による物と思われる石田三成・上杉景勝らの書簡もある。
 このように代々勤勉に励んだ家系であったようである。