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近世初期の4通の文書を軸装した巻子であるが、いずれも小田家との直接的な関連は認められない寺院関係の文書である。また,石田三成書状が、ともに伝来していたようであるが、現在は散逸している。
2月14日付けの1通目は、署名・花押から判断すると、豊臣家五大老の一人であった上杉景勝の書状である。封紙(包紙)には、料紙(用紙)の署名と同筆で景勝とある。また、名宛てについては、先学による解読では「本佐」と読み、本多佐渡守正信に比定しているが、慎重を期す。内容は、明15日の朝の茶会に招かれたことに対する御礼と、参上する旨を伝えるものである。2・3通目と合わせて判断すると、名宛ては智積院に想定できるかもしれない。智積院は、京都府京都市東山区にある真言宗智山派(明治維新以前には新義真言宗)総本山であるが、慶長5年(1600)に再興されている。上杉景勝は慶長6年(1601)2月に上洛しており、あるいはこの年の文書かもしれない。
2通目は、「芸中(安芸中納言)輝元」、すなわち豊臣家五大老の一人である毛利輝元が智積院に宛てた卯月(4月)18日付けの書状である。智積院で星回りの吉凶を占う星供と呼ばれる密教の修法が執行され、運勢を占ってもらった輝元は、巻数御符(守り札)を受け取った。この書状は、その礼状であるが、輝元は巻数御符を受け取って「満足」し、「入魂」して祈祷した智積院の「験」によって「心安」くなったと述べている。輝元は、関ヶ原の戦いの後の慶長5年10月に出家して宗瑞と署名するようになるので、この書状の年代は、慶長5年に比定できる可能性がある。
3通目は、7月27日付け、「片市正且元」、すなわち豊臣家の老臣である片桐市正且元の書状で、2通目と同様に智積院に宛てられたものである。文中に記される「大御所様」とは、慶長10年(1605)4月16日に将軍を秀忠に譲った後の徳川家康を指すと見られる。且元は、元和元年(1615)5月28日に没しているので、この文書の年代は、慶長10年から同19年(1614)ということになろう。内容は、智積院が8月1日を祝う年中行事である八朔の祝儀として酒の大樽を贈ったことへの御礼、および智積院が全阿弥に照会していた、関ヶ原の戦い後に改易された小西家の消息が不明であること、大御所家康に、家康が智積院に寄進した寺領が悪く、物成(年貢)が少ないという訴えを次いでの際に取り次ぐこと、以上の3点である。
4通目は、霜月(11月)29日、伊予松山藩主(愛媛県)蒲生忠知の意志を奉じた家臣志賀与三右衛門・蒲生源兵衛・岡左衛門佐の連署書状である。内容は、松山の浄土宗寺院弘願寺において「宰相様」の三年忌(三回忌)を執行するにあたり、来月(12月)2日に非時(斎食)を差し上げるので、午の刻(午後0時ごろ)に参上するよう、同じく松山の弘真院・石手寺・大山寺(太山寺)・室岡寺の4か寺に命じたものである。名宛ての下には、各寺院から法事に出仕した伴僧の人数が記されている。蒲生忠知が急死した兄忠郷の跡を相続して松山に転封されたのは寛永4年(1627)である。「宰相様」とは、同年正月4日に没した忠郷を指すとみられ、その三回忌は同6年(1629)正月4日となるが、正月を避け、法事を前年に執行したとするならば、この文書の年代は寛永5年(1628)に比定できる。
本連署書状には、本書と異筆の書き入れがある。折紙を畳んだ際の端には「霜月廿七日 弘願寺御仏事」、「拾四万六千石 若松、拾壱万石 与州、同年十二万石 同」とある。忠郷・忠知の父秀行は関ヶ原の戦い後に奥州会津(福島県)に封じられ、忠郷が跡を継いだ。しかし、忠郷が嗣子なく没したため、忠知は減封・転封のうえ家督を許可された。その事情を書き留めたものであろう。なお、忠知もまた寛永11年(1634)8月に早世し、蒲生家は断絶するが、これに代わって伊予松山を治めたのが小田家の主家である松平定行である。
解説:山澤 学(筑波大学人文社会系准教授) 2017.9