坂野耕雨(1802-62)、坂野家第十一代当主。名を福・久馬・義敬、八代当主豊昌の孫にあたる。古澤村(現下妻市)古澤久右衛門治居の次男として生まれ、のちに十代当主祐慶の養嗣となった。耕雨の養父母への姿勢について、秋場桂園は耕雨の漢詩文を息子の行斎が編纂した『月波楼遺稿』に耕雨亭記を寄稿し、その中で「自號耕雨」、「乏衣食者、雖疾風暴雨、不得不耕耨以養父母也」と述べている。 また、大沼枕山は耕雨について「少壮、嗜詩、而、善之。然、以経史。為経済之基本」とあるように経学、いわゆる儒学を学び、また史書を学んだことを伝える。このような学びを背景に梁川星厳の塾「玉池吟社」に学び、漢詩また尊攘の思想を合わせ、自らの文化的素養を発露する場として、自宅に書院「月波楼」を設け、近郷、また江戸から多くの文人墨客を迎え、地方文化の興隆に大きな役割を果たした。その交流から自然と書画が収集されており、これらの書画によって。耕雨の文化人との交流を知ることができる。 坂野耕雨は「玉池吟社」の交流として、梁川星巌が交流した頼山陽、杏平、三樹三郎父子、藤田東湖、小野湖山、それに社友として森春涛、大沼枕山、生方鼎斎などが坂野家資料に関連し、また地域では秋場桂園との交流によって尊攘派との交友が広がりある収集となった。さらに耕雨以降、12代行斎以降の収集品も見られる。耕雨の時代の月波楼は大9(1920)年に改築され、行斎によって「月波楼」での交流が続けられ、中村不折などの近代作家作品が収集品に反映している。 坂野家の書画資料は、耕雨、行斎によって収集された。家格の装飾を目的としたものではなく、当主の実質的な交流によって伝来したものであった。したがって華美な姿勢は一切なく、表具も必要に応じて、あるいは贈答者によって行われたもので、それが耕雨が示し、行斎が継承した経学、経済を重視した坂野家の在り方と解釈できる。 | 坂野耕雨(1802-62) |
坂野行斎(1821-1893) | |
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解説: 守屋 正彦(筑波大学教授・博士(芸術学)) 2017.9
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