坂野耕雨書 七言二句


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帝似嫌隂氣未退      帝 嫌うに似たり 陰気の未だ退かざるを
駈来祝融捲春風      駆け来りて祝融 春風を捲く
  耕雨福
 
【語釈】
陰気(寒さ)
祝融(火の神)
 
解読: 森岡 隆(筑波大学教授・博士(芸術学))


 耕雨は漢詩を梁川星巌に学んでいる。『玉地吟社詩』一集巻四に「坂野福、字大来號耕雨、下総人」とあり、漢詩「黄檗山」、「須磨琴」「残菊」が載る。玉池吟社は漢詩人梁川星巌が妻紅蘭とともに神田お玉が池に新居を開いた。坂野耕雨はその吟社で多くの知友を得ることとなった。
 坂野家伝来資料は梁川星巌その人が深く交わった人物の書画とその収集が重なる。星巌は美濃の人で、19歳で江戸に出るが、のち、妻紅蘭とともに諸国を遊歴し、広島に頼杏坪を訪ね、文政10(1827)年に上洛して頼山陽や日野大納言資愛と交わる。天保3(1832)年秋10月江戸に巻菱湖宅に寓し、翌年の江戸大火で水戸藩邸にも仮寓している。耕雨が星巌と交わる記録に『星巌戊集』巻4 玉池生後集 弘化元(1844)年10月~翌年6月の記録に「甲辰(1844)十月初五日同大沼子壽(大沼枕山)阪野大来(阪野耕雨)遊海晏寺看紅葉、歸途經澤庵和尚墓、墓在東海寺後、東海寺上方望海作歌」とあることから、耕雨の大沼枕山との交流も明らかである。この時期は天保の改革が終焉を迎え、老中間での紛糾が続いた年であり、徳川斉昭も隠居、謹慎の処分を受け、坂野家に書状を送った藤田東湖も同時期に謹慎となっている。耕雨は星巌を通じての尊攘派の交流の中にいた。弘化2(1845)年10月、星巌は玉池吟社を閉じて上洛し、勤王の志士たちと時局を論じたとされる。坂野行斎が編纂した『月波楼遺稿』の冒頭は大沼枕山の序で始まる。その中で「余毎游下総、以翁東道主人、而受厚眷」とある。また、遺稿の最初に「寄題諸篇」を載せ、その最初に星巌が「坂野大来書楼」として「月波楼」を書いている。
 耕雨の二句詩はこのような時代気分の中で書かれたものであろう。
 
解説: 守屋 正彦(筑波大学教授・博士(芸術学))
2017.9
 
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