坂野耕雨書「次韵和間中雲帆見寄之作」詩


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 「耕雨坂野福拝具」の落款のとおり、坂野耕雨(名は福、字大来、1803-62)が「安政丁巳觀蓮會於月波樓上」すなわち安政4年(1857)に自邸月波楼で催した観蓮会での自詠漢詩幅だが、その前行「次韵和間中雲帆大兄見寄之作、兼呈桂園大兄」の「見」は受動の助字であり、「次韵して間中雲帆大兄が寄せられし作に和し、桂園大兄に兼呈す」とあることから、間中雲帆(1818-93)の漢詩に応えて同じ韻字を同じ順に用いた詩を詠み(次韵)、あわせて秋場桂園(1813-95)にも呈したことを知る。その雲帆の詩は「贈耕雨坂野兄」詩であり、『月波楼遺稿』の「寄題諸篇」にも所収されている。
 本漢詩は「博識也君孤陋也我。此中情味誰寫得。寛恕能在君包容。廿年辱知堪感荷。臭味相投金石調。豈是世間輕薄交。大小之事點無隱。兄乎弟乎真漆膠。經史共談閑窓夕。褒貶推誠鰌鬚直。一盃到手倶高唫。百年自嗤詩為癖。此情了得只老桂。向他人不可言于品字。訂義非徒為預為三家子孫計」で、句末の「我」「荷」「調」「交」「膠」「夕」「癖」「桂」「計」が雲帆詩と同字同順に置かれている。第五句の「臭味」はにおいと味を同じくすることから仲間のことで、「鰌鬚」はどじょうひげ。また「品字」は品の字の形に三人が座る品字坐、すなわち鼎談のことであろう。なお終句の「訂義」は、話し合いで決める「訂議」と解せ、「豫(予)」であるべきところも「預」と誤記されている。
 大意は次のようになろう。博識の雲帆に対し自身は見識が狭く、雲帆の包容に接してきた二十年間に感謝する。また、ともに金石などの学に勤しむが、何事も隠さぬ兄弟のようでもあり、互いに真心をもって直言する。杯を重ねつつ詩を吟ずるが、これを理解してくれるのは桂園のみである。鼎談はただ自身のためだけでなく、三家互いの子孫のためでもあると結ぶ。年下の「間中雲帆」と「桂園」の上を欠字とし、「大兄」も添えて敬意を表しつつ、どじょうひげの曲がり癖を直すといったユーモアも交えるなど、固い絆で結ばれていたことが窺える。
 落款印は、名と字を刻した「阪福私印」「阪氏大來」の両白文印だが、耕雨自身、墨書でも「坂野」「阪野」ともに用いており、その「阪野」を「阪」と刻したのは修姓表記。また冒頭には「家在飯沼東」白文引首印が捺されているが、飯沼は常総市の北西部にあった南北約24km、東西約1kmという狭長な湖沼で、享保10年(1725)以降、新田開発されたことが知られる。
 
解説: 森岡 隆(筑波大学教授・博士(芸術学)) 2019.3
 
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