坂野行斎書 七言絶句


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(「多師是我師」朱文引首印)
世路怱々歳月遷       世路怱々として歳月遷る
追尋往事轉悠然       往時を追尋すれば転(うた)た悠然たり
俊才成用人皆逝       俊才用を成せども人皆逝く
樗□徒逢七十年       樗(散)徒(いたずら)に逢(むか)う七十年
樗下脱散          「樗」の下に「散」を脱す
 行齋叟(「飯牛書屋」白文長方印)
 
【語釈】
世路(世の中。人生行路)
樗散(ちょさん、無能の人物)
【備考】
落款印は行斎の堂号だが、『漢書』鄒陽伝を典拠とする「乞食(きっしょく)飯牛」によると思われ、引首印も含め、謙虚な姿勢が窺える。
 
解読: 森岡 隆(筑波大学教授・博士(芸術学))


 ちょうど行斎が古希を迎えたときに人生を振り返って書いたのであろう。 あっという間に歳月が過ぎて、物事が悠然と進み、すぐれた人々がみなこの世を去って、役に立たないまま70年を迎えたという意味であろうか。
 行斎は11代耕雨の嫡子で、名は信寿、字は至堅、号を行斎といい、12代当主となった。『月波楼遺稿』序の大沼枕山によれば「令嗣行斎君。亦為余之熟知。能継翁之志。不墜家道落。」とある。家居清約、老成して、豪気な人物であったと伝える。
 行斎は父耕雨とともに星巌の玉池吟社に学んでいる。「玉池吟社詩姓名目次」に載り、「阪野法、字至堅一、字大年、號行斎⁻大来男」とあり、社詩に「太平山嘱目二首、秋場山中初聞鶯、従高砂抵圓亀舟中、長崎客中雑吟、客舎詠菊」が載る。耕雨同様に漢詩文に秀で、また耕雨が交流した社友を自邸「月波楼」に招き交流した。歴史家富村登の講演録(常総市図書館謄写版本)によれば「山水の遊を好み、西南諸州の名勝を訪ねて西往紀行二巻、同詩草一巻を記している。学者肌の人物で、月波楼に残された書画の分類整理も手がけ、また耕雨の「月波楼遺稿」も彼の手により刊行された。「坂野家墓所石塔図」を表し、家系の整理も行っている。」と伝える。
 
解説: 守屋 正彦(筑波大学教授・博士(芸術学)) 2017.9
 
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