坂野公堂書 七言絶句「嘉永六年癸丑元旦試筆」


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 坂野公堂(名は平、通称梅之丞、1838-53)にはもう一作、翌年(1853)の書き初めである「嘉永六年癸丑元旦試筆」が遺るが、この軸装裏面にも「公堂詩 行齋所藏」の外題の傍らに「公堂俗称梅之丞。坂野信壽之嫡男。嘉永六年癸丑三月、齢十六歳而没。此書則同年正月所書也」(句読点、解説者)という公堂の略伝が貼付されている。外題と略伝の筆跡を対照するに「公堂」の字形、外題の「堂」の六画目と略伝の「正」の四画目の短縦画の書きぶりなどが同様であることから、ともに父信寿すなわち行斎(1821-93)が記したものと認めてよい。
 本作揮毫の二か月後に夭折した公堂の絶筆と言えるが、「守愚」白文引首印以下、七言絶句を行草の単体で丁寧に揮毫している。が、解釈に困る字もあり、四字目は行人偏のように見えるが「紅」、「大平」は太平のこと、転句末字は「色」と解せ、結句の「桮」は杯の本字。よって「竹翠梅紅答大平。全家相聚琴新色。先欣少弟能欽禮。共把蘇桮祝後榮」で、「竹翠梅紅 太平に答う。全家相聚(あつ)まり琴新色なり。先ず少弟の欽礼を能くするを欣(よろこ)び、共に蘇杯を把(と)り後栄を祝う」と読み下せる。
 このうち「琴新色」は新式の琴の意で、一弦琴をもとに考案された八雲琴(やくもごと)をさらに改造した東流(あずまりゅう)二弦琴のことであろう。江戸時代末以降普及し、これをさらに改良したのが大正琴とされる。また、初行の字数が多くなるのを厭わずに平出とした「少弟」は、明治21年(1888)刊『月波楼遺稿』で父坂野耕雨(1803-62)の漢詩を編録した「男信壽」すなわち12代行斎を手伝い、校正に携わった「孫」の13代蕃則(通称伊左衛門、1843-1904)である。
 落款は前年の「奉賀曽祖羅淳先生六十初度」詩と同様に「坂野」を修姓で「公堂坂平謹書」と記す。その下に捺された「飯湖釣徒」白文印と「公堂」朱文印は刻法の練度から見て自刻のようだが、「飯湖」すなわち飯沼は常総市の北西部にあった南北約24km、東西約1kmの狭長な湖沼で、享保10年(1725)以降、新田開発されたことが知られる。「釣徒」は公堂が釣りを好んでいたことを示していよう。
 上記のごとく揮毫の作法を心得つつ、「全家相聚まった中、弟がつつしみ礼節のあることを欣び、屠蘇の杯をいただき、後栄を祝う」と詠んだ公堂には「栴檀は双葉より芳し」が実感される。それだけに、嫡男を失った坂野家は深い悲しみに包まれたことであろう。
 
解説: 森岡 隆(筑波大学教授・博士(芸術学)) 2019.3
 
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