- 渓山読書之図
- 岡田雲洞画・鷲津毅堂賛
左上の賛「丙午秋八月粗(ほぼ)倣元人法寫/溪山讀書之図以贈邂逅/大来阪老兄於東都馬街 雲洞岡田和」(/改行)のとおり「渓山読書之図」と題する淡彩山水図だが、「元人の法に倣う」は黄公望(こうこうぼう、1269-1354)や倪瓚(げいさん、号雲林、1301‐74)ら元末四大家などに倣ったということであろうが、縦長の画面を活かした遠近法の構図と墨色の濃淡で、近景の川の流れから遠景の高山までを描き、中ほどに庵中で読書をする隠者を配し、その衣に赤を用い点睛としている。
軸箱の蓋裏に貼付された「安政乙卯」すなわち安政2年(1855)の旧軸装裏面の坂野耕雨(1803-62)の記述「北越岡田雲涛洞山水」から、越後出身の岡田雲洞(名は和、通称栄蔵、1802-75)画と知るが、父の香雪(喜兵衛)、子の耕雲(龍松)も学芸を好み、書画ともに能くし、孫紅陽(賢治郎、1895-1972)も新潟県十日町市出身の写真家として知られる。同市の中央を信濃川が流れていることから、朱文引首印「家在信水東」(家は信水の東に在り)の「信水」は信濃川と解せよう。落款に「岡田龢印」白文印と「雲洞」朱文印を捺すが、「洞」は空海筆「風信帖」所見の「海」と同様に旁「同」の下に「水」が配されている。
本作は、雲洞が「丙午」すなわち弘化3年(1846)8月に坂野家第11代当主耕雨に贈ったものだが、「大来阪老兄」を平出として敬意を示す。耕雨と邂逅したのは「東都馬街」と読め、江戸の大伝馬(おおでんま)町のことであろう。初代歌川広重の「東都大伝馬街繁栄之図」が天保14年(1843)から弘化4年(1847)頃に板行された直後にて、「馬街」で通じたことと思われる。
画面右上には「松心耐雪」朱文引首印を添えた鷲津毅堂(名は宣、字重光、1825-82)の賛もしたためられており、「毅堂宣題」の下に「宣字重光」「毅堂學人」両朱文印を捺す。賛は「几浄窓眀十笏餘。清幽眞個愛吾廬。匹如避暑石林老。能入山中能著書」という七言絶句だが、「笏」は尺の意で「10尺余四方の狭い庵だが、世俗を離れた明窓浄几(机)のたたずまいはまことに好ましい。匹(ひとり)石林老の避暑のごとく、山中で書物を著すことができる」といったところ。「石林老」は石林と号し『避暑録話』などの著作がある北宋末南宋の葉夢得(しょうぼうとく、1077-1148)のことであろう。
毅堂といえば、安政5年(1858)に耕雨らと四人で催した「月波楼連句」もあることから、折々に耕雨宅に通っていたことが窺え、後に着賛したこともあり得る。が、雲洞が賛を左に寄せているのは、年少の毅堂に上手(かみて)すなわち右半をあけておくためと解せ、二人の合作であったと見たい。
解説: 森岡 隆(筑波大学教授・博士(芸術学)) 2019.3
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