嶺田楓江書 七言絶句「訪耕雨詞兄賦之以呈」


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 幕末から明治にかけての教育者として知られる嶺田楓江(名は雋、字士徳、1817-83)が自詠の漢詩を行草体で揮毫したものだが、「余受著書譴閉居殆三期、々茲辛亥春赦後十餘日、訪耕雨詞兄賦之以呈。楓江雋(しゅん)」の添え書きが、この漢詩の由来を示す。楓江は嘉永2年(1849)にアヘン戦争を記述した『海外新話』を著したが、外国事情を記した書物を学間所の許可なく刊行したとして、翌3年に同書の没収と開板禁止処分を受け、楓江は10月から押込(おしこめ)すなわち蟄居を命じられた。翌4年1月に許されたものの、江戸と京大坂の三都での居住禁止、いわゆる所払いとなったことが知られる。よって添え書きは、「自著が譴(とがめ)を受けて三年閉居したが、辛亥春すなわち嘉永4年(1851)1月に赦免となり、その十日余り後に耕雨を訪ね、この詩を賦して呈する」となる。
 詩は「春風逢赦忽吟行。駅路花新三日程。嗟我硯田荒阮久。要乗微雨学君耕」という七言絶句で、「春に赦免となり吟行に出て三日間、街道の花をたのしみつつであったが、自身の文筆が久しく滞ったままであることを嗟(なげ)く。この際、耕雨さんに学びたい」といった意に解せるが、転句の「硯田荒阮」(阮は原と同義)と結句末字の「耕」をかけ、結句も「微雨」と「耕」すなわち「耕雨」をかけている。年長の耕雨に対して当然とはいえ、結句の「君」の上を欠字とし、添え書きでも「耕雨詞兄」と記すが、楓江が赦免後すぐに坂野耕雨(1803-62)を頼り、しばらく逗留を願う心が察せられる。
 なお結句は、南宋の陸游(1125-1209)の七言絶句「小園四首其一」の結句「又乗微雨去鋤瓜」(また微雨に乗じて去(ゆ)きて瓜を鋤(す)く)を踏まえたものであろうが、それと合わせてか「帶經鋤」朱文引首印を捺す。この語は寒山詩に「少小帯経鋤」(少小より経(けい)を帯びて鋤く)とあるとおり、経書を読みながら田畑を耕すこと、好学のたとえとされる。ただ、この引首印は「鋤」の中の「且」を「耳」に誤っている(草野剛氏教示)。
 「波南詩顚」白文落款印は、坂野公堂(1838-53)の「奉賀曽祖羅淳先生六十初度」詩にも捺されている。楓江が落款印を持参していなかったか、これも梅痴から借用したのであろうが、体裁を整えるための押印として、敢えて不鮮明に捺したかもしれない。
 本幅裏面には耕雨が楷書で「嶺田楓江見贈詩」と、楓江から贈られた詩と記すが、富村登(1886-1964)著『常総の漢詩人』(1965年刊)の楓江の項に記述のとおり、耕雨も楓江に「嶺田楓江蒙著書譴 久錮其邸 今春逢赦 便游吾郷 贈以一絶」と題する七言絶句「驚喜故人方免寃。儘追春色到吾村。相逢先問三年事。不説幽愁説主恩」を贈った(『月波楼遺稿』31丁表=耕雨遺稿廿二丁表、所収)。旧友が無実の罪を免れて村に来たことを喜んで迎え、まず三年間のことを問い、禁錮で済んだのであれば幽愁(深い憂い)ではなく、むしろ主恩(幕府から受けた恩)とすべきと説いた、といった内容である。
 本幅裏面の記述は「安政乙卯演装 月波樓所藏」と続くが、「演」は「潢」の誤字であり、しかも「装潢」(そうこう)がふつうである。ともあれ、揮毫から4年後の安政2年(1855)に軸装されたこと、また「行齋字大年」朱文印を捺した紙片も貼付されることから、息行斎(1821-93)に受け継がれたことがわかる。
 
解説: 森岡 隆(筑波大学教授・博士(芸術学)) 2019.3
 
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