藤田東湖筆 書状


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一 新刀壱腰       一、新刀壱腰
一 勝雄武師壱把     一、勝雄武師(かつをぶし)壱把
右乍微少寸志を     右、微少乍ら寸志を
表候 已上       表し候 已上
    藤田誠之進
嘉永六年(1853)
 十二月廿四日 彪(たけき)(花押)
 
解読: 森岡 隆(筑波大学教授・博士(芸術学))


 東湖は1853(嘉永6)年暮れに耕雨宛にお礼の品に書状を添えて贈答をしたことが明らかである。
 藤田東湖(1806~1855)は水戸彰考館総裁で儒学者藤田幽谷の二男として水戸に生まれた。名は彪、字は斌郷。通称虎之助、のち誠之進。文政10(1827)年,家督相続。水戸彰考館総裁代役となり、激烈な尊皇攘夷論者として知られ、藩主斉昭を補佐して天保の改革を推進し、側用人となる。1844(弘化1)年に幕閣であった斉昭が行った天保の改革の折の鉄砲斉射などが行き過ぎとされて藩主を隠居することとなり、併せて謹慎に処せられた。東湖もまた藩主に従って免職となり、禄を剥奪されて、1846(弘化3)年に水戸藩上屋敷に幽閉された。翌年には下屋敷に謹慎蟄居となった。処分が解かれたのは1852(嘉永5)年閏2月であり、水戸への帰郷が許されたのが、1853(嘉永6)年、耕雨宛の書状が書かれた年であった。この後、ペリーが浦賀に来航したのを機に、藩主斉昭も海防参与として幕政に復帰し、東湖も幕府の海岸防禦御用掛となり、翌年には側用人に復帰した。1855(安政2)年10月2日、江戸大地震の際、藩邸において母を守り落ちてきた梁によって圧死。享年五〇であった。
 当主耕雨は、梁川星厳の玉地吟社に学んで東湖を知り、水戸藩や諸藩の尊攘派と交友があった。東湖が長期にわたり江戸藩邸に蟄居した折に耕雨は何かと助成したものと思われ、本書状は東湖が帰藩した折に「微少乍らの寸志」をお礼の品として、耕雨に贈ったと解釈できる。
 
解説: 守屋 正彦(筑波大学教授・博士(芸術学))
2017.9
 
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