河口柳坡書 七言律詩 「月波楼賦」


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 付属する「安政乙卯」すなわち安政2年(1855)の旧軸装裏面上巻(うわまき)に、坂野耕雨(1803-62)が「古河藩川口柳坡所贈詩」と外題を記すが、「柳坡」朱文引首印や落款「柳坡河善」と「河信善印」白文印から、河口柳坡(名は信善)の作である。なお引首印の「柳」について、「木」の下に「卯」を配することは散見されるが、本作はその逆で「栗」のごとき形としている。落款印は修姓で「河」一字としたため、名の「信」と「善」の分割を避け、反時計回りに印文を配した回文印としている。
 下総国古河藩の河口家といえば、代々藩医を務めたことで知られ、信任(1736-1811)以降はみな「信」で始まる名のようである。その信任の孫信順(号祐卿、1793-1869)は漢詩にも造詣が深く、書家の小山霞外(1785-1864)らと漢詩の会を催したことが知られる。本作に捺されたもう一顆、朱文印にも「長卿氏」と信順と同様に「卿」が付き、年代も耕雨や信順と重なるが、柳坡こと信善は知られていない。古河歴史博物館の永用俊彦氏も河口家の系譜などに信善や長卿の名は未見とのことだが、鷹見泉石の日記の嘉永元年(1848)9月4日条に長卿が杏斎と改名したと記すことから、信順の子で杏斎、枕河などと号した信寛(1829-1906)の可能性をご教示いただいた。
 信寛とすれば、嘉永2年に江戸に出て杉田成卿に入門、次いで伊東玄朴に医学を学び、安政4年(1857)に蕃書調所(ばんしょしらべしょ)に修学。文久3年(1863)以降、に医学所(東京大学医学部の前身)で種痘の研究に従事したが、家督を弟信久(1851-1919)に譲った後は漢学者の大沼枕山に学び、古河で漢学塾を開いたことが知られる。落款印二顆という体裁を整えるべく、嘉永元年(1848)まで名乗った長卿の印をその後も用いることはあったかもしれぬが、安政2年(1855)に軸装されたのであってみれば、二十代半ばで揮毫したことになる。信順や信順と近しい者の筆跡を対照することで明らかになることもあろう。
 その本作。行草体で七言律詩を揮毫するが、添えられた「訪耕雨先生月波楼賦呈幷正」の「訪」を詩の下に記し、「耕雨」を平出として敬意を表している。また「正」は「正せ」と読むが、「お教え願いたい」の意を示す。詩は「恩威久服闔郷(こうきょう)氏。今日棲遅學強倫。布[穀鳥]聲中去耕雨。瓜皮舩上獨無綸。誰図弄月吟花客。曾是解紛分肉人。最好楼頭讀書處。波山嵐翠滴衣中」と読めるが、詩題のとおり「耕雨」「月」「波」「楼」の字を交えている。
 ともあれ「恩威」は恩恵と威光、また情け深くやさしいことで、「闔郷(こうきょう)」は全村、村中の意。二行目行頭(三句目)の「穀」の偏と「鳥」から成る字は、「穀」の下に「鳥」を書く字で、「布[穀鳥]」(ふふどり)すなわちカッコウの古称とされる。「瓜皮舩(かひせん)」は小舟、「綸」は釣り糸。「嵐翠」は山に立つ靄の緑色のこと。よって、「村の者みな、情の厚い耕雨を久しく慕ってきた。かつて紛争を解決し、食糧を配ってくれた方が、カッコウの声が聞こえる夏に名主を退かれ、村は小舟の上で一人釣り糸もないような状態となった。今は筑波山に漂う緑の靄が衣に滴る中、楼上での読書を最も好んでおられる」といった内容であろう。
 
解説: 森岡 隆(筑波大学教授・博士(芸術学)) 2019.3
 
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