秋場桂園・鷲津毅堂・坂野耕雨・西村以寧 「月波楼連句」(鷲津毅堂書)


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(「紙囱竹屋鎧華南熒」朱文引首印)
會散長堤夕日斜 秋場祐     長堤に会散し夕日斜めなり
角巾伴過故人家 鷲津宣     角巾伴い過ぐ故人の家
頓厖掉尾先迎客 阪野福     敦厖掉尾先ず客を迎う
籬落春風枳殻花 西村以寧    籬(まがき)落ち春風枳殻の花
詩酒交游不厭貧 福       詩酒交游して貧を厭わず
高唫大酔任天真 祐       高唫大酔して天真に任す
月波楼上今宵宴 以寧      月波楼上、今宵の宴
属盞誰非青眼人 宣       盞(さかずき)に属(そそ)げば誰か青眼の人に非ざらん
頽雲缺月夜明分 祐       頽雲欠月、夜眀を分かち
満耳蛙聲隔樹聞 宣       満耳の蛙声、樹を隔て聞く
料得明朝應醸雨 以寧      料得す明朝応(まさ)に雨醸すべし
天公著意欲留君 福       天公 意を著(あらわ)し君を留めんと欲す
 
戊午三月念月波楼聯句      戊午(安政5年、1858)三月、月波楼を念ずる連句
毅堂宣書(「鷲津宣印」「重光氏」ともに白文方印)
 
【語釈】
角巾(昔、隠者がかぶった、かどのある頭巾)
故人(古い友人。旧友)
頓厖(敦厖(とんぼう)の誤り。人情に厚く誠実なこと)
枳殻(カラタチの漢名)
高唫(高吟。声高く詩歌を吟ずること)
青眼(人を迎える時の、うれしい心のあらわれた目もと)
料得(推し量る)
天公(天)
【備考】
引首印は蘇東坡尺牘中の語「紙窓竹屋、燈火青熒」の誤りであろう。
なお「紙窓」は明り障子をはめた窓。「青熒」は灯火が青く光ること。
 
解読: 森岡 隆(筑波大学教授・博士(芸術学))


 鷲津毅堂・西村以寧・秋場桂園・坂野耕雨による月波楼での連句は常総地域ゆかりの文人によるものであった。連句の作られた前年の1857(安政4)年には、徳川斉昭が幕閣に復帰し、また、米国総領事ハリスが将軍家定に国書を呈して、12月には日米通商条約の草案が作成された年であった。
 鷲津毅堂(1825-82)は幕末から明治かけての漢詩人として知られる。尾張の人で若くして昌平坂学問所に学び、のちに尾張藩の儒者となった。1851(嘉永3)年に魏源著『聖武記』の抄録を『聖武記採要』として刊行したが、幕府の統制に触れて尾張藩を追われた。その後1852(嘉永5)年に結城藩校の教授となった。同年6月に辞任しているが、この時の縁で耕雨、また秋場桂園と交流したものであろう。1853(嘉永6)年にペリーが浦賀に来た折に、『告詰篇』を水戸藩の徳川斉昭に献呈している。1854(安政元)年(1854)11月に尾張藩の招きに応じ、明倫堂教授となった。
 西村以寧はその経歴が詳らかではないが、水海道から猿島、結城、古河に至る広大な無町が開拓され、この地域の、下総飯沼の諸家による詩集『飯沼詩鈔』(1849(嘉永2)年11月刊、高橋順(信斎)・秋葉誠(格非)編)が出版され、坂野耕雨と共に漢詩を寄せている。『可簡堂詩鈔』には「常陽以寧西村昌著」とあり、「鴻山秋葉誠輯」とある。
 秋場桂園については『月波楼遺稿』に「耕雨亭記」を寄せており、また耕雨の息子行斎にあてた「行斎古希寿言」で触れているので省略する。
 
解説: 守屋 正彦(筑波大学教授・博士(芸術学))
2017.9
 
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