坂野行斎編『月波楼遺稿』


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 坂野家12代当主行斎(名は信寿、1821-93)が父耕雨(名は福、義敬、字大来、1803-62)の遺した漢詩をまとめ、明治21年(1888)5月に私家版刊行したのが袋綴36丁72頁から成る『月波楼遺稿』で、耕雨とともに梁川星巌(1789-1858)の玉池吟社に学んだ①大沼枕山(名は厚、字子寿、1818-91)の序、②田峻(号春耕)が描いた「畊雨先生五十歳小象」(肖像)、その画賛の代わりに、③耕雨が壬子すなわち嘉永5年(1852)に知命(50歳)を迎えた感懐を詠んだ七言絶句が添えられ、④猪瀬東寧(名は恕、字如心、1838-1908)の描いた月波楼図「耕雨先生讀書樓圖」が巻頭を飾る。
 次いで「寄題諸篇」として梁川星巌、宮澤雲山(1781-1852)、小野湖山(本姓横山、1814-1910)、梅痴(1793-1858)、遠山雲如(1810-63)、間中雲帆(1818-93)、嶺田楓江(1817-83)、大沼枕山、秋場桂園(1813-95)の9名から寄せられた漢詩が載り、耕雨の交流と人望が偲ばれる。
 10丁表から「北總坂野義敬大来著」の「月波樓遺稿」で、改めて「一丁」以下の丁数を付すが、その冒頭に「男信壽編録」「孫蕃則、曽孫保敬仝(同)校」とあり、耕雨に続く三代が刊行に尽くしたことを知る。その「孫蕃則」は、16歳で夭折した公堂(1838-53)の弟すなわち13代を継いだ蕃則(通称伊左衛門、1843-1904)であり、蕃則の息が14代保敬(賢次郎とも、通称伊左衛門、1869-1938)である。所収の耕雨漢詩は七言絶句「春暁」以下120題140首に及ぶが、年代順のようで、七言十六句の「壽豊城老人八十」が末詩。この詩は、上掲の東寧の祖父猪瀬豊城(名は愿、1781-1862)の傘寿を寿ぐものであり、直前の七言律詩「庚申元旦」と同じく安政6年(万延元年、1860)の作である。巻末の遺稿廿八丁裏(36丁裏)は「不肖男信壽拝識」すなわち息行斎の跋文で結ばれている。
 これら耕雨の漢詩のうち、遺稿十丁裏(19丁裏)所載の「秋葉素盟多寶精舎會詠殘菊同枕山湖山諸子」の題で詠まれた七言律詩が、清末の学者兪樾(ゆえつ、号曲園、1821-1906)が東瀛(とうえい)すなわち日本の漢詩を撰した『東瀛詩選』巻四十二に、「阪野福字大來號耕雨下總人」の「殘菊」題で掲載されている。が、第二句「三徑荒凉始有霜」が「三徑荒涼轉有霜」(「涼」と「凉」は同義)に、第七句「不似人心今夕異」も「不似人心今昔異」になっており、わずかに異同がある。『東瀛詩選』は光緒9年(明治16年、1883)の25巻以降、数次にわたり刊行したとされ、補遺として277人の漢詩が収められた巻四十一からの4巻は『月波楼遺稿』とほぼ同時期であろうから、これら語句の異同の前後関係は判じ難い。とはいえ、耕雨の漢詩が名主の余技ではなく、漢詩人として評価されたことを示すものである。
 なお本冊には、見返しと同版のくるみ表紙3枚も遺るが、これらに記された「飯牛書屋」は行斎の屋号で、自身の古稀を詠じ揮毫した七言絶句にも「飯牛書屋」白文印を捺している。
 
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解説: 森岡 隆(筑波大学教授・博士(芸術学)) 2019.3
 
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