遠山雲如書 七言律詩「訪耕雨坂先輩席上賦呈」


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 江戸後期の漢詩人遠山雲如(名は澹、号裕斎、雲如は字、1810-63)が、自詠の漢詩を細身の線、縦長で右上りの字形で揮毫したものだが、「訪 耕雨坂先輩席上賦呈」の添え書きから、月波楼での席上作であったことがわかる。「耕雨」の上と、詩中二行目の「君」の上を欠字として坂野耕雨(1803-62)への敬意を示すが、「坂先輩」も「野」を脱字したわけではなく、いわゆる修姓表記である。白文引首印の「吾喪我」は「吾、我を喪(わす)る」という『荘子』斉物論篇の語で、忘我の境地とされる。落款印は「遠山澹印」「雲如」ともに白文印。
 この七言律詩「林巒繞水碧相連。中有高人嫺且賢。数戸爨炊依祖業。一湖風月握閑權。延招君似孔文挙。寄食誰其王仲宣。最憶唱酬多麗藻。梅花時節藕花天」は、明治21年(1888)刊の『月波楼遺稿』の「寄題諸篇」に「訪耕雨坂野君席上賦呈」の題で所収されるが、第六句の「其」が「同」に改められている。ここは第五句「君を延招すること孔文挙に似たり」と対句となる頸聯(後聯)であり、「誰かに寄食すること王仲宣に同じ」が妥当で、修正されたのであろう。「延招」も「招延」がふつうだが、孔文挙は孔子の後裔孔融の字、王仲宣は王粲(さん)の字であり、ともに後漢末期の「建安七子」に数えられる。
 が、同遺稿で第四句の「閑權」を「間權」としたのは誤りである。「閑権」は北宋の詩人林逋(りんぽ、967-1028)の詩句に見られる語で「閑かさをひとりほしいままにすること」とされ、それに倣った柏木如亭(1763-1819)と友人大窪詩佛(1767-1837)ら晩晴吟社にかかわる三人が、寛政12年(1795)に詩中に用い始めたことが指摘される。雲如もそのような影響を受けたと思われる。
 なお、旧軸装裏面の上巻(うわまき)に「雲如寄贈詩 耕雨道人」と記されるが、耕雨が巻緒をまたいで書いたために「贈」と「詩」の間があいている。
 
解説: 森岡 隆(筑波大学教授・博士(芸術学)) 2019.3
 
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