藤森弘庵書 五言古詩


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(「弘菴」白文引首印)
擧世忌孤寒       挙世 孤寒を忌み
薄俗不我與       薄俗 我と与にせず
俯仰天地間       俯仰す天地の間
青山獨可語       青山独り語るべし
琹則對山横       琴則ち山に対して横たえ
茶則對山煮       茶則ち山に対して煮る
録舊製為行齋板君    行斎板君の為に旧製を録す
 天山真逸(「藤森大雅」「淳風人」両白文印)
 
【語釈】
挙世(世をあげて。世の中の人みな)
孤寒(身寄りがなく貧しい)
薄俗(軽薄な風俗)
【備考】
落款印の「淳風」は字(あざな)による。
嘉永7年(1854)秋に刊行された弘庵(1799-1862)自詠漢詩集『春雨楼詩鈔』(9巻)巻一・五言古詩に所収された「物外雑題」六首の第一首。なお、この「物外雑題」などは、清末の学者兪樾(ゆえつ、1821-1906)撰で光緒9年(明治16年、1883)の25巻以降、数次の刊行とされる『東瀛(とうえい)詩選』巻二十六にも収められている。
 
解読: 森岡 隆(筑波大学教授・博士(芸術学))


 藤森弘庵(1799-1862)は土浦藩の儒者。江戸に生まれ、長野豊山に儒学を学ぶ。大雅、恭助を名乗り、晩年は天山と号した。1838(天保9)年、藩主寅直が父彦直の隠居に伴い、第10代藩主を継いだ折に、藩政改革に伴い登用され、農政の復興や藩士教育,軍制改革に尽力したが、反対にあって、これを辞し、江戸に帰り、私塾を開く。ペリー来航に際し『海防備論』を著し、また『芻言』を徳川斉昭に建白した。梁川星巌、頼三樹三郎らと交流し、また藤田東湖、鷲津毅堂らと攘夷の詔勅を幕府に降るように画策するなど、安政の大獄に連座し捉えられたが、亡くなった年に赦免となった。
 弘庵は耕雨と同年代で、耕雨が交流した梁川星巌、頼三樹三郎、藤田東湖、鷲津毅堂らと重なる。この書は耕雨ではなく、行斎にあてた「録舊製為行齋坂君」と為書きである。思うに行斎が家督を継承した折に求めたものであろう。弘庵は、耕雨(文久二年九月十九日死去)の後を追うように同年10月8日に亡くなっている。
 
解説: 守屋 正彦(筑波大学教授・博士(芸術学))
2017.9
 
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