秋場桂園書 七言絶句「行斎阪野君古稀寿言」


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 七言四行詩「四莚酔客沸喰聲、七十九翁詩恰成、堪喜献酬今日宴 祝君兼祝我長生」とあり、寿言に添えて、「行斎坂野君古希寿言祐桂園 時年七十有九」とある。これにより、「秋場桂園(1813-95)は坂野耕雨(1802-62)より10歳下で、その子行斎の古希であるから行斎70歳、書した桂園が79歳であることがわかる。詩は行斎の古希を祝うだけでなく自らの長生きを祝っている。そのことは耕雨の漢詩文を行斎が編纂した『月波楼遺稿』に寄せた桂園の言葉にも現れており、耕雨を指して「吾友」と語りかけ、「天下之艱難」が「農夫之最艱難」として、「逸若農夫之耕於雨而不憚其労」とあるように、耕雨の人となりを伝えている。よほど親しい関係であったようである。この背景から、このような自らを娯しむ作詩を寿言としたのであろう。
 秋場桂園については富村登が『水海道郷土史談』に桂園の家は「代々名主役を勤め、貞享元禄以降の文書に載せられた名主権左衛門の名は、皆其先祖である。」、桂園は「猪瀬豊城に学び、次いで土浦町大野竹軒の門に入り、さらに江戸に学んで佐藤一斎、大窪詩佛に師事」して後に、帰郷し水海道村の名主役(里正)となった。また、桂園は在地支配の地頭日下氏に随行して上洛し、「大に知見を博むると共に、尊王の主義を脳裏に深く包んで帰って来た」として、これに続けて「頼三樹三郎が桂園を訪ふて其志を述べた事も、桂園の思想が、早く既に、同人の間に知れ渡っていた」とし、戊辰後は「桂園は雲帆、耕雨と同じく其家豊かで、甚だ客を愛し、来れば即ち酒をすゝめて歓待下から、訪客は門に満ちた。」「小野湖山、大沼枕山、鷲津毅堂、川田擁江、信夫恕軒等の如きは其最も著しきものである。」と述べている。坂野耕雨の収集品からかなり重なる交流であることが明らかで、おそらくこの時期に耕雨の月波楼もまた同様の交流の場であったと解釈できる。
 
解説: 守屋 正彦(筑波大学教授・博士(芸術学)) 2017.9
 
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