田能村竹田画 山水小点図


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 かなり虫食いが激しいが、田能村竹田(1777-1835)が描いた小品の山水画としてよいであろう。山中の草庵に文雅の高士を訪ねての帰りであろう。手前には渓谷にかかる小さな橋の上を歩く主人とその後に童子が掛軸のような巻物を抱えて従っている。背後には教場であろうか、草庵に人物が描かれ、おそらくは送別の画意を表した山水図であろう。山容を描く皴法や樹木や葉の描き方は竹田晩年の制作と考えてよい。
 坂野家に伝来する本図はその入手が明らかではないが、おそらくは頼山陽に関連してのものであろう。坂野耕雨は「玉池吟社」を通して、梁川星巌が交流した頼山陽、杏平、三樹三郎父子を知る。また、三樹三郎は常総地域を訪ねており、『水海道市史』(上巻 第四編 近世の水海道地方 第五章 水海道の文化 第三節 学問、503~504頁)によれば、耕雨と交流の深い、常総の代表的な漢詩人である秋葉桂園について「桂園またつとに勤王の志あり、幕末の志士吉田松陰、頼三樹三郎の両人もかつて相次いで水海道に桂園を訪うや、そのつどこれを歓待し、ともに盃を傾けながら国事を談じ、夜を徹するを知らなかった」と伝えている。
 竹田は豊後国直入郡竹田村、岡藩儒医田能村碩庵の次男として生まれ、22歳のとき藩校「由学館」に儒員として出仕している。1825(文政8)年に専売制度に反対した農民一揆が起こった折に、農民の救済、学問の振興を主旨とした藩政改革を要求する建言書を提出したが受け入れられなかった。竹田の経世済民の思想は耕雨の漢学の思想と同調するものであろう。伝来の背景についての記録はないが、竹田没後に、竹田を知り求めたものであろう。
 
解説: 守屋 正彦(筑波大学教授・博士(芸術学)) 2017.9
 
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