二宮金次郎筆 瀬兵衛宛書状


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 薪を背負いつつ読書に励んだ苦学の少年期の像で知られる江戸後期の農政家二宮金次郎(名は尊徳、1787-1856)が、下野国すなわち「野州東郷(ひがしごう)陣屋」(栃木県真岡市)在勤時に、下総国すなわち「総州岡田郡大生郷(おおのごう)村」(茨城県常総市)の瀬兵衛に宛てた「態々以飛脚申遣候。然者其村方取直仕法向之儀付、過日相渡候書状之内、認違有之哉付、此者へ可被相返候。早速取調、差遣し可申候。此段申遣候。以上」という「八月廿七日」付の達筆の書状である。
 「わざわざ飛脚を以て申し遣はし候。然らばその村方取り直し仕法向きの儀につき、過日相渡し候書状の内、認(したた)め違ひこれ有るやに付き、この者へ相返さるべく候。早速取り調べ、差し遣はし申すべく候。この段申し遣はし候。以上」と読め、「飛脚を以って申します。そちらの村方を立て直す仕法について、過日お届けした書状に誤記があるとのことですので、その書状をこの者にお返しください。すぐに内容を吟味して新しい書状を差し向けます」といった内容と解せる。仕法とは、農民の節約を通じて農業経営を立て直し、農村復興を図る方法のことで、金次郎がこのように提唱したものは報徳仕法とか尊徳仕法と称される。
 天保4年(1833)に始まった天保の大飢饉も要因となったとされる天保の改革を進める幕府の命を受け、二宮金次郎が同14年に大生郷村の仕法に取り組んだものの、地元の役人と対立して遂行できなかったことが知られるが、本書状はその経緯の一端を示すものと言える。
 外側の糊封には、文面と同じ宛所「総州岡田郡大生郷村/瀬兵衛殿」に脇付「役人中」を添え、その下に、これも文面と同じく「野州東郷陣屋/二宮金次郎」と記し、「東郷陣屋」黒文円印を捺して封緘する。宛所「瀬兵衛殿」の右上に書き入れられた小字は判じ難いが「上組」であろう。
 瀬兵衛は当時、大生郷村の村役人である組頭の一人であった。名主坂野久馬(耕雨)に次ぐ立場にあり、大生郷村における報徳仕法を積極的に導入しようとしていたことが指摘される。本書状は、糊封の宛所の脇付に「役人中」とあることから、村役人の代表である耕雨が保管することとなり、坂野家に伝来したものと思われる。
 なお本書状については、山澤学氏にご教示を賜った。
 
解説: 森岡 隆(筑波大学教授・博士(芸術学)) 2019.3
 
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