立原杏所画 琴棋書画図のうち鑑画


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 詩書画三絶というが、文人は琴棋書画を嗜み、飽くまで自娯の余技として、職業的な営みと見られることを嫌った。あくまで在野にいて文人の生き方を楽しむ高邁な思想を自負とした。江戸後期には儒学、漢学の文化が広く地方に及び、坂野耕雨も生き方を経学に、漢詩文学に求めた一人である。
 本図は琴棋書画の一つである。柳下人物を描いているが、故宮博物院所蔵の琴棋書画を描いた明人十八学士図の中に鑑画の画幅がある。杏所はこのような画幅を絵手本によって学んだものと思われ、鑑画の場面を描いている。学士たちが見入る絵画、いわゆる画中画には、冠羽がある珍しい小禽が描かれている。おそらくキレンジャク、あるいはヒレンジャクという雀の一種であろう。背景には太湖石、きわめて丁寧な筆致で、当時の文人趣味、漢詩文に造詣の深い坂野耕雨が求めたい画題である。
 立原杏所(1786-1840)は水戸藩の藩儒であった立原翠軒の長男で、7代藩主徳川治紀、8代斉脩、9代斉昭に仕えた。幼少より絵を好み、林十江に学び、江戸に出て、谷文晁に師事し、明清絵画を熟覧し、惲南田(寿平)、沈南蘋の画風を学んだ。杏所は渡辺崋山、椿椿山、高久靄崖と交流し、蛮社の獄で崋山が捕縛された折は救出に向かい、嘆願を行っている。著書に『水滸伝印譜』、『近世書画年表』など、勤勉な学習態度の成果と考えられ、本図の制作においても古典に学んで、精緻な画風を作り上げた。
 杏所は耕雨より年長であり、1840(天保11)年に亡くなっている。耕雨が梁川星巌の玉池吟社に学んだ頃であろうか。文人の気風を知り、儒学、漢学、漢詩文を学んだ頃であろう。耕雨は梁川星巌、渡辺崋山、大沼枕山、小野湖山など優れた知識人と交流し、また彼らの書幅、画幅を求めたと推論する。
 本図は極めて丁寧な描写、精緻な表現で、杏所の漢画として、貴重な一品であろう。
 
解説: 守屋 正彦(筑波大学教授・博士(芸術学)) 2017.9
 
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