菅井梅関画 墨松図


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 菅井梅関(1784‐1844)は江戸後期の文人画家で、仙台の生まれで、名は岳、通称岳輔,初号東斎,諱を知則と名乗る。仙台で根本常南に中国元代の絵画に倣う水墨画を学び、のちに江戸に出て谷文晁に学ぶ。古典の名画を求めて京阪に遊び、清人江稼圃の画風を慕い、長崎に遊学、筆勢を重んじた水墨表現の絵を描いた。江稼圃は中国文人画の技法や文人の思想を日本の画家に直接伝えることで、日本南画の発展に大きく貢献した人として知られている。長崎に遊学して10年、大坂に出て、頼山陽,篠崎小竹ら多くの文人と交遊する。江稼圃の中国への帰国に際し、贈った墨梅図が清の梅道人に似ることが評判となり、これを得て「梅関」と名乗ったとされる。
 本図は雄渾な筆力を活かした墨松図である。墨の濃淡を活かし、どっしりとした松の幹は淡墨で、松葉の茂れる枝は濃く、力強く生命力があふれた松の姿である。梅関は頼山陽らから文人画を求められた。坂野耕雨は師である梁川星巌、また星巌塾「玉池吟社」社友である大沼枕山を通して頼山陽、費晴湖、谷文晁など、多くの知己を得るが、彼らを通して梅関の文人画の魅力は聞いていたものであろう。
 本作は箱書きに酒井家とある。おそらく梅関没後に耕雨は梅関を知ることになったのであろう。本図の酒井家について、収集の経緯は今後の課題であるが、耕雨の漢学、漢詩文学を学ぶものとして、坂野コレクションに加えたものであろう。
 
解説: 守屋 正彦(筑波大学教授・博士(芸術学)) 2017.9
 
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