日野資愛書 五言絶句


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(引首印「南洞」朱文長方印)
九月中山道      九月の中山道
風寒多隕霜      風寒く多く霜隕(ふ)れり
峰巒秋満眼      峰巒(らん) 秋満眼
樹々弄紅黄      樹々紅黄を弄ぶ
 辛丑(天保12年、1841)旅中之作
 資愛(「藤資愛章」回文・白文方印)(「子博氏」朱文方印)
 
【語釈】
峰巒(峰)
 
【備考】
引首印の「南洞」は日野資愛(すけなる)の号。
 
解読: 森岡 隆(筑波大学教授・博士(芸術学))


 この詩の制作は干支「辛丑」とあることから、1841年となろう。日野資愛(1780-1846)は江戸後期の公家で、従一位、准大臣にのぼった人である。皆川淇園に儒学を学び、また漢詩、和歌に造詣が深く、頼山陽と親交があった人で、また梁川星巌著『西征詩』に序文を書いている。また梁川星巌は1827(文政10)年には京都で頼山陽・日野資愛らと知り合い、交流しのちに、1834(天保5)年には江戸に入り、神田お玉が池に新居を構え「玉池吟社」を興しているので、坂野コレクションの交流の背景に頼山陽、梁川星巌との関連で日野資愛を考えてよいであろう。詩には「辛丑旅中之作」とある。東京都公文書館に『日野大納言浜苑游覧儀定書附詩歌』が伝わっている。浜苑は浜離宮のことで、浜離宮の訪問は1842(天保13)年3月1日のことであった。この時の『訪問記』「浦の浜ゆう」は成島司直によって記録された。日野資愛知恩院宮尊超法親王が浜離宮を訪ねた折には、幕府からは大学頭林述斎の三男で、幕府の儒官である林皝、成島司直が応対し、国学者で歌人の北村季文、絵師は狩野養信が接待役となり各々漢詩、和歌,絵を披露したことを伝えている。坂野家のコレクションには成島司直の賛のある鈴木其一画「東蘺図」が、また狩野養信筆「寿老人図」三幅対が伝来しているが、耕雨は星巌を介して、この時に日野資愛の書や狩野養信、成島司直賛其一画を求め、収集したものであろう。
 
解説: 守屋 正彦(筑波大学教授・博士(芸術学))
2017.9
 
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