鈴木鵞湖画 赤壁図


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 本図は屹立とした赤壁と、点景としてその下で釣りを行う人物が描かれている。右側に広く川と遠景の山を表し、いわゆる辺角の景と呼ぶ表現を示して、広い空間意識を背景に表している。迫り出した崖に茂る緑樹、岩肌には宋代の画家米芾が用いた米点と言われる筆を横に点じた表現も見られ、遠景の山々が見せる柔らかな曲線と対照的で、早い描き方であるが卓越した画技を示している。『三国志』で有名な赤壁の戦いは揚子江を上流に遡り、支流である漢水が戦場で、洞庭湖に向かう途中にある崖に挟まれた地形である。この地で魏の曹操は華北をまとめ、呉の孫権、蜀の劉備の連合軍と激烈な戦いを演じている。圧倒的な軍勢を誇った曹操軍も水上での船による戦いに慣れておらず敗退。赤壁は歴史書『三国志』を劉備玄徳を善玉として小説化した『三国志演義』で天下分け目の戦いとして有名となった。また宋代の詩人蘇東坡が同地を訪れ『赤壁賦』を詠じた。その中の一つに「西望夏口、東望武昌、 山川相繆、欝乎蒼蒼。此非孟徳之困於周郎者乎」と孟徳(曹操のこと)が周郎(周瑜)に苦しめられた景色であることを詠じた。蘇東坡の詩は文人の理想として絵画化され、幕末には文晁をはじめ文人画家の多くが好んだ画題となった。赤壁図は実景を見て描いたわけではなく、赤壁賦の詩を得て、その理想を描いた、いわゆる胸中山水図の一つと言ってよいであろう。
 鈴木鵞湖(1816(文化13)年-1870(明治3)年)は下総国豊富村(現船橋市)に生まれ、江戸に出て絵を谷文晁、相沢石湖に学ぶ。鵞湖の師である谷文晁は赤壁図を描いている。画中右上に「康戌冬日寫意 鵞湖山人雄 (印)」とあり、これにより、本作は1850(嘉永3)年に制作したと推論できる。
 おそらく漢詩文を梁川星巌に師事し、玉池吟社の社友として多くの知己を得た耕雨にとって、蘇東坡の詩を描いた赤壁図は求めたかった画題の一つであろう。
 
解説: 守屋 正彦(筑波大学教授・博士(芸術学)) 2017.9
 
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