根本愚洲 岡本秋暉 富貴図

【右襖】

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 坂野家主屋の脇玄関襖絵二面のうち、右襖絵は根本愚洲筆「富貴図」で、画中上段に大槻磐溪による七言絶句の墨書を載せる。牡丹は富貴図と呼ばれることから、この画が人を迎える調度として求められたものであろう。絵に「癸丑夏日」とあることから、1853(嘉永5)年の着賛である。この年は七月にペリーが浦賀に来航した。
 襖絵を描いた根本 愚洲(1806-73)は、江戸時代後期から明治初めの南画家。二本松藩御用絵師である。名は溥のち巽、字は器。号に愚洲、三石道人などがある。1826(文政11)年、藩主の命により谷文晁が経営する写山楼に入門。当時、文晁の代筆を行った。のち、九州に遊歴し、長崎で沈南蘋、日高鉄翁に学んだ。
 絵は褪色して本来の彩色が明らかでないが、襖の全面を使って太湖石とともに大輪の牡丹を描かいている。「癸丑夏日写 愚洲散人」の署名がある。
 また、賛は「淡紅濃紫冠奇葩、香露春深富貴家、老客在皇覆信者、直南西属斯花将」「癸丑秋日紀舊製 磐溪崇「印」」の漢詩が上部に書かれていることから、襖絵よりやや遅れての着賛である。大槻磐溪(1801-78) は仙台藩養賢堂学頭となった人で、幕末期の論客として知られる。彼は梁川星巌に漢詩を学んでいることから、坂野晴雨とは同門である。また、1853(嘉永5)年はペリーが浦賀に7月に来航しているので、着賛の時期は尊攘、開国と揺れたころであり、磐溪はこの年黒船来航に際しての報告書『米利幹議めりけんぎ』を著した。
 
【左襖】

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 坂野家主屋の脇玄関襖絵二面のうち、左襖絵は岡本秋暉筆「富貴図」で、上段に昌谷精渓による五言絶句を載せる。絵は、牡丹に雀が遊ぶ景色で、「秋暉」の署名がある。制作の時期については画中に記録がなく明らかでないが、襖絵としての形式は右襖絵と同様であることから、同時期1853(嘉永5)年の制作と考えてよい。
 岡本秋暉(1807~62)は花鳥画、特に孔雀を得意とした。小田原藩江戸中屋敷に勤務するかたわら、藩の御殿を飾る障壁画を制作している。1846(弘化3)年頃を中心に下総柏村(現柏市)の名主寺嶋家に滞在して南蘋風の絵を遺していることから、下総地域での交流があったものと想定できる。長崎で沈南蘋の画風に学んでいるので、右襖を描いた根本愚洲とは同門と考え、その交流から坂野家襖絵の制作を行ったと解釈できる。
 賛は五言絶句で「明艶旦清香、桜花是賢交、将所在成美、転貢楊妃配」「精澹翁「印」」と昌谷精渓の漢詩を載せる。昌谷精渓(1792-1858)は佐藤一斎や林述斎に師事し,のちに津山藩の儒者となり、「周易音訓書」を著した。
 大槻磐溪、昌谷精渓ともに昌平坂学問所に学んだ儒者であった。
 
解説: 守屋 正彦(筑波大学教授・博士(芸術学)) 2017.9
 
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