小山霞外臨「争坐位文稿」


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 冒頭の「臨書之章」朱文引首印が示すとおり、江戸後期の書家で下総古河に在住した小山霞外(1785-1864)が、唐の顔真卿(がんしんけい、709-785)の三稿の一つ「争坐位文稿」を臨書したものである。この文稿は拓本のみ伝わるが、「以齊桓公之盛業、片言勤王、則九合諸侯、一匡天下、葵丘之會、微有振矜、而叛者九國。故曰、行百里者、半九十里、言晩節末路之難也」(斉の桓公の盛業を以てして、勤王を片言せば、則ち諸侯を九合し、天下を一匡(いつきょう)するも、葵丘の会に、微(すこ)しく振矜(しんきょう)する有り、而して叛(そむ)く者九国なり。故に曰く、百里を行く者、九十里を半ばとするは、晩節末路の難きを言うなりと)を忠実に臨書しつつも、「半」や「節」の終画は長く伸ばしている。
 「壬戌寎月(へいげつ)霞外老人孺幼公甫截臨」の落款が文久2年(1862)3月の「截臨」(せつりん、節臨)と記すが、「孺」は名の朝孺(ともつま)、「幼公」は字で「甫」は字に添える語である。時に霞外78歳、下に捺された朱文方印も「七十八翁」である。ともあれ、臨書の末文の意「晩節を汚さぬことの難しさ」を肝銘しつつであっただろう。
 
解説: 森岡 隆(筑波大学教授・博士(芸術学)) 2019.3
 
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