秋場桂園賛、小林蔵六・玉潤、松田秀軒画「蘭菊蓮図寄書」


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 秋場桂園(1813-95)とその門下3名による寄書きで成ったものである。このうち桂園と小林夫妻については本デジタルミュージアムの各々の項で略記したが、本作のみにかかわる松田秀軒(1855-1928)も水海道出身。代々医者の家の二男に生まれたが、次第に漢方医学を離れ、東京で本橋朝倉等に入門し西洋医学を修学。二年後に帰郷したものの医者にはならず、漢籍などを講ずる塾を開くとともに、地元の自由民権運動を先導したことで知られ、昭和3年に74歳で逝去した(『水海道市史』下巻21~23頁、同年表)。
 半切の紙を用いた本作は、まず松田秀軒が蘭を描き、それに小林玉潤(名は鶴、1851-77)が菊華を添え、小林蔵六(1837-78)が下の蓮は濃墨、上の蓮は淡墨でコントラストをつけて補った後、「秀軒」の落款と同朱文楕円印、「玉潤添菊華」の落款と「鶴」朱文印、「藏六補蓮」の落款と「後尚左生」白文印を添えたであろう。墨の様子や落款の位置から、このように察することができるが、梅も描けば、いわゆる「四愛図」となるところであった。
 最後に桂園が隷書で題記ないし賛を添えたであろうが、本紙上部20cmほどが欠損している。残画のみの字は「穆(ぼく)」であろうか。この字は旁「白」の下を「ナ」「彡」と書くことができるからで、とすれば「二」は畳字(踊り字)で、上の字との間隔がやや広いものの、和やかで親しい意の「穆々」と解せ、この寄書きに適していよう。ただ「穆々」の上に一字あった可能性もある。
 蔵六の「後尚左生」印の「尚左」とは左を尚(たっと)ぶことであり、「尚左生」は専ら左手で事をするひとのこと。元代の鄭元祐が右腕脱臼後に左手で楷書を書き、自ら尚左生と称したとされるが、清代中期の書画家・篆刻家で「揚州八怪」に数えられる高鳳翰(1683-1749)も右手を患った晩年は左手で揮毫し、尚左生と号した。年代も近く、同じ画家であることからして、蔵六は高鳳翰を受けて「後の尚左生」を自認したであろうが、大運河による水運と塩などの取引で富を得た揚州と、水運で栄えた水海道の地も重ねたかもしれない。玉潤の朱文落款印「鶴」ともども上下逆さに捺されている。蔵六の「墨竹図」でも逆さに捺されており、左利きによることを指摘したが、杯を傾けつつ穆々とした中での寄書きであってみれば、なお起こり得たことであろう。
 
解説: 森岡 隆(筑波大学教授・博士(芸術学)) 2019.3
 
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