小林蔵六画 墨竹図


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 小林蔵六(1837-78)は、幕末から明治にかけての下総(しもうさ)水海道出身の文人画家で、号友竹居のとおり竹を描くことに秀でた。各々全紙サイズの紙に描いた本作三幅も墨の濃淡が美しい竹の絵だが、三尊像のごとく配した構図から、また左幅や屏風の左隻の落款は左端、右幅や右隻の落款は右端という作法から、その並べ方がわかる。まず左幅は竹の節がやや強調されているとおり、「清節凌秋」と題記する。題「雪壓(圧)銀梢」の右幅は、雪の重みにたわむ梢のさまで、雪を描き残しで表現する。
 中幅は満月に照らされた竹が描かれるが、画題は難しい。が、末字の「匚」(はこ構え)の中に「出」の形が、則天武后が在位初年の690年に制定し、国中に使用を強制した新造象形文字・新造会意文字とも言うべき則天文字の「月」であることから、「風枝唫月」と判読できる。「風」と同義の漢字として「颷」のほか、「風」の左ないし右につむじ風を意味する品字様の「猋」を付した「飆」「飇」があるが(以上、みなヒョウ)、風構えに見立てた「勹」(包構え)の中に「猋」、しかも「犬」の「大」を「火」の形にして書いたのであろう。上下直列の「人」「人」「、」がそれを示し、横に三組並ぶことから画数も合致する。「唫」は「吟」と通用だが、この題書に見る発想には驚きを禁じ得ない。ともあれ、三幅で秋から冬への移ろいを描いた秀作と言える。
 落款は各々「左腕藏六」、「丙子二月寫於耕雨亭、左腕藏六」、「時丙子二月寫於耕雨亭中、左腕藏六」(読点、解説者)。右幅の「二月」の「月」も則天文字で明治9年(1876)2月に月波楼で描いたと記す。これを描いてほどなく同11年12月に蔵六は42歳で他界したが、左腕で書画をしたためたことは、渡辺華洲(1852-1929)が明治18年(1885)に発表した「小林藏六傳」(『明治詩文』第三大集第十巻所収)でも「左腕揮毫」と記されている。同伝では「名朋。字子益」と記すが、常総市の大楽寺境内にある蔵六墓誌や本作落款印のとおり、字は「士益」である。
 なお、三幅同じ落款印は白文の「朋印」と朱文「士益」だが、中幅で二顆とも逆さに捺されていること、また二顆の間隔が三幅同一であることから、連珠印いわゆる下駄印である。蔵六の上下逆さの押印といえば、「蘭菊蓮図寄書」の自身と妻玉蘭の落款印も同様である。押印の際、上から見て印の側款が左側になるのがふつうだが、側款が二面以上に及ぶこともあり、左利きの蔵六故に瞬時誤ることもあったであろう。
 
解説: 森岡 隆(筑波大学教授・博士(芸術学)) 2019.3
 
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