小野湖山書 七言律詩「七十自寿」


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 末行に「録舊製」(旧製を録す)「湖山七十一翁」とあるとおり、幕末・明治の漢詩人小野湖山(名は巻・長愿、1814-1910)が、明治17年(1884)に自詠の七言律詩を行草体で揮毫したものである。縦横は異なるが「充廣徳性力行好事」と同じ半切の画仙紙(136㎝×34㎝)を用い、落款も同じ「湖山七十一翁」と「長愿之印」白文印であることなどから、同時作と見てよい。
 詩は「残年七十何須賀。自賀筵開我自嗤。遇酒能狂同陸子。放言有作似微之。閑中冨貴受来久。世上甘酸甞得知。敢望老聃彭祖域。只要恬澹保無為」だが、詩中の「微之」は七言律詩の「放言五首」が遺る元微之(779‐831)のこと。白居易と唱和した詩が多く「元白」と並称されることで知られる。「彭祖(ほうそ)」は殷末に八百余歳であったという長寿者で、「彭祖の寿」は長寿のたとえ。同じく長寿であったとされる「老聃(たん)」すなわち老子(李耳)とともに「彭聃」の語もある。「陸子」は判じかねるが、「子」は男性の称であり、号放翁のとおり、宴飲しては礼を欠き「燕飲頽放(たいほう)」と伝えられる南宋の文人陸游(1125-1209)のことであろう。
 よって「残年(晩年)の古稀を迎え、ひとり賀筵(祝宴)を開き陸游のように酒を飲んで騒ぎ、元微之のように放言しては自嘲する。すでに冨や名誉も受けてきたし、世の甘酸もなめてきた。この後は老聃や彭祖のような長寿を望むのみだが、そのためには恬淡として自然にまかせていくことを心がけていきたい」といった内容である。「長愿之印」印の下に、同じく白文の禅語印「安分以養福」(分を安じ以って福を養う、安分は養福を以ってす)を捺すが、「自分の為すべきことをわきまえていれば道が開けて幸福になる」という意であり、詩の内容に適うものである。
 朱文の引首印「賜硯樓」も「充廣徳性力行好事」と同じだが湖山の楼号で、内閣書記官としての功により明治16年(1883)7月9日に天皇より硯を賜ったことによる。その硯の図は翌17年、すなわち本作を揮毫した年の7月に刊行した『賜研楼詩』巻頭に、三条実美揮毫の題字の後に載るが、側面に本硯を清玩する五言絶句が刻されており、その落款「古浣鄧石如(とうせきじょ)」から、清の書家・篆刻家鄧石如(号完白、1743-1805)旧蔵であったことがわかる。
 本作の詩は、『賜研楼詩』巻一の「賜研紀恩詩三首幷諸家和什」に次ぐ巻二冒頭の「七十自寿二首」の一首目として収められているが、初句から「残年七十何ぞ賀するを須(もち)いん」とは「七十歳。何がめでたい」といったふうである。実際、望みどおり「老聃彭祖の域」の97歳で長逝した湖山であった。
 
解説: 森岡 隆(筑波大学教授・博士(芸術学)) 2019.3
 
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