山岡鉄舟書 七言二句


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(「處世若大夢」朱文引首印)
園林幽雅已成趣       園林 幽雅にして已(すで)に趣を成せば
朝市紛華豈到心       朝市紛華 豈(あ)に心に到らんや
 鐵舟(「山岡高歩」「鐵舟居士」両白文印)
 
【語釈】
朝市(朝廷と市場。人の多く集まる所)
紛華(はなやか。にぎやか)
 
【備考】
楊公遠(1228—?)の七言律詩の三・四句を書いたもの。
引首印は「世に處(お)るは大夢の若(ごと)し」。
 
解読: 森岡 隆(筑波大学教授・博士(芸術学))


 制作年は明らかでないが、茨城県ゆかりの人として、坂野行斎が求めたものであろう。
 この詩は「夢回春草池塘外、詩在梅花煙雨間」の句で有名な、中国元の楊公遠が詠じたもので、七言律詩「徑麯通村深復深、聽鶯吟歇聽蟬吟。園林幽雅已成趣、朝市紛華豈到心。匣冷馮驩長鋏劍、壁懸元亮不絃琴。故知忤世皆緣直、有口从今只合瘖。」の三、四句を引用したもので、山岡鉄舟の創作ではない。この時期には西郷隆盛も楊公遠の詩「夢回春草池塘外」を墨書している。
 山岡鉄舟(1836~1888)は明治四年に全国的に県の統廃合が行われ成立した茨城県の初代県知事(参事)に就任した人である。耕雨は1862(文久2)年に没しているので、鉄舟の漢詩の墨書を得たのは坂野家十二代当主であった行斎による収蔵であろう。
 鉄舟は幕末から明治にかけて活躍し、名は高歩、通称鉄太郎。剣・禅・書の分野で知られている。剣では神陰流、樫原流槍術、北辰一刀流を学び、妻は鹿島神宮神職塚原岩見の二女を得ている。岩見の先祖には塚原卜伝がいることから、維新後、一刀正伝無刀流の開祖となっている。また、書では勝海舟、高橋泥舟とともに「幕末の三舟」の一人とされる。
 鉄舟は江戸無血開城を取り決めた勝海舟と西郷隆盛の会談を前に、官軍が拠点とした駿府に赴き、同地伝馬町の松崎屋源兵衛宅で西郷と事前に面会し無血開城の道を開いた。
 二人が引用した楊公遠の詩は時代の転換期を創出した彼らにとって、学ぶべき詩人であったということであろう。鉄舟は維新後、茨城県、伊万里県知事を歴任し、1872(明治5)年に明治天皇の侍従となり、同14年には宮内少輔に進んだ。1888(明治21)年7月19日、皇居に向かって結跏趺坐のまま絶命した。
 坂野家に所蔵される鉄舟の書は、本書以外では四言、五言の扁額に用いる横幅二枚と二行を墨書した縦幅三枚が伝来している。
 
解説: 守屋 正彦(筑波大学教授・博士(芸術学))
2017.9
 
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