福島柳圃画 松竹図


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 松竹は梅と合わせて歳寒三友と言われ、めでたい画題である。謡曲『三笑』に「萬代を、松は久しきためしなり…」とあるように、松は単独にてもめでたい画題である。また、竹は地下茎を這わして子孫を作る。竹林は我が国の独自の景観を有し、山水画題として近世では文人画題として池大雅、与謝蕪村、渡邉崋山、円山応挙などに名作が残っている。
 福島柳圃(1820-1889)は武蔵野国那珂(埼玉県)の出身で、江戸で四条派の柴田是真に師事し,のち文人画に転じている。名は寧。字は春農,子直。別号に黙神草堂を名乗る。
 図は竹図が右に落款、松図は左に落款があることから、右幅「竹図」、左幅「松図」と対幅にして掛けた。竹図は墨の濃淡を活かして、左下から右上方へと巧みに筆勢を表して、若竹の生命力がみなぎるように描かれている。画中中央、下段に「耐寒因動節 醫俗在霊心 瀟流誰為友 千秋少獣金」とあり、「柳圃老人詩畫」と書かれていることから、晩年の制作であろう。松図には「日映千年緑 風傳太古音 秦官元不要 寄跡在雲林」とあり、同様に「柳圃老人寧寫題」とある。
 本図の制作年代からいうならば、坂野家では耕雨が1862(文久元)年に没し、明治を迎えるころは坂野行斎が当主となった。「柳圃老人」の落款から、晩年の制作で、耕雨の縁を当主として繋げた行斎による近代にいたっての収集である。
 福島柳圃と耕雨の関連について、その縁は耕雨の遺稿集である『月波楼遺稿』に「巳未正月念一日雪信宿草間敬斎家」とあり、これに続く段落で「同雙峰老人諸子、飲福島柳圃宅。酔後看上野浅草両處之花…」とある。この記事によれば行斎がこの絵を求める以前から耕雨と福島柳圃が知己であり、酒を酌み交わす仲であった。
 このことを考え合わせるならば、奥原晴湖が、墨吐煙雲楼を堂号として画家として自立した折に祝宴を挙げ、柳圃を招いていることや、当時大沼枕山、福島柳圃、奥原晴湖らが中心となり、1871(明治3)年に両国中村楼での画会を開いたが、その席上はすでに耕雨亡き後であったが、秋場桂園、五木田松濤ら常総の漢詩人も参加していることから、柳圃との交流が耕雨と関係する人たちで継続していたと解釈できる。
 
解説: 守屋 正彦(筑波大学教授・博士(芸術学)) 2017.9
 
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