- 四君子図
- 川村雨谷画
本図は坂野家書院「月波楼」二階、二の間にある中村不折題字「月波楼」扁額の下、押入れとの境にある襖四面に描かれた、右寄り「蘭」、「竹」、「菊」、「梅」を各面に描いた「四君子図」である。
四君子はいずれも気品、高潔とされ、文人の理想である君子は徳と学識、礼儀を備えた人を言い、文人はこの絵を描き、また、求めた。耕雨の漢詩を息子の暁斎が編集した『月波楼遺稿』によって耕雨の儒学への傾倒、漢詩文の造詣が深いことが確認できるが、それゆえに耕雨亭「月波楼」を改修した息子の行斎は、耕雨その人が望んだ文人の理想として、月波楼の襖絵に「四君子」を求めたものであろう。
それぞれの襖絵を右からうかがうと、「蘭」図は右からせり出した岩肌を柔らかな皴法と点苔で表し、二株の春蘭が咲き誇るように描かれている。春蘭は別名を幽蘭と言うことから、本図を「幽谷佳人」の画題としてよい。また蘭は四君子の一つであることから、「君子之風」ともいってもよいであろう。
次に「竹」図は大地から若い竹、また筍が生えて描かれている。竹に筍を添える画題はその成長の旺盛なさまを言い、「子孫繁栄」と言う。
「菊」図は太湖石に菊を描く。菊は別名を延年、延寿客という。
「梅」図は幹から枝を伸ばして咲く梅花を描く。四枚一画と見立てると梅図が最も左であり、その末尾に、画中「庚寅夏日写不深草堂雨谷遷史」と署名がある。庚寅の干支により、明治23(1890)年の制作が明らかである。月波楼は現在の建物が大正9(1920)年であることから、旧構から引き継がれた襖絵である。
川村雨谷は明治2(1869)年刑部省につとめ、大審院判事に進み、明治31(1898)年退官。上記の制作年を勘案すると、在任中である。梅図に書かれた「庚寅夏日写不深草堂雨谷遷史」から類推するに雨谷の書斎「不深草堂」にて描いたと解釈できる。
解説: 守屋 正彦(筑波大学教授・博士(芸術学)) 2017.9
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