渡辺華洲書 七言絶句


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 水海道小学校長や茨城県議会議員を務めた渡辺華洲(名は武助、1852-1929)が縦135cm、横54.5cmの聯落ちの画仙紙に自詠の七言絶句「奉将典籍拝恩光。經國明倫説得詳。請見聖賢千古業。煥乎如日在文章」を達筆の行書で揮毫したものである。「まさに典籍を奉り恩光を拝し、経国明倫説くこと詳らかに得んとす。聖賢千古の業を請見し、煥乎(かんか)として日の如く文章在り」と読めるが、君主の慈愛をいう「恩光」や国を治める意の「経国」、人倫を明らかにする「明倫」といった語、またその文章が「煥乎」(著明、あざやか)であると詠じていることから、明治23年(1890)に教育勅語が発布されてほどなく詠じたものかと察せられる。
 華洲は40歳前に校長を辞して華洲塾を開き、地域の青少年教育に尽くしたことが知られるが、その頃にこの漢詩を詠み揮毫したのであろう。落款「華洲学人孚」に「渡邊孚印」白文方印を添えるが、「孚」は「まこと」と読むのであろうか。孚化(孵化とも)・孚育の「孚」であり、「学人」ともども教育者にふさわしいが、水海道小学校長に就いた明治18年(1885)に発表した「小林藏六傳」(『明治詩文』第三大集第十巻所収)ですでに「華洲渡邊孚」の名を用いている。もう一顆「華州」朱文方印の「州」は三水偏を略した省文(略字)で「洲」と通用する。
 白文引首印の「光風霽(せい)月」は、宋の黄庭堅が周敦頤(とんい)の人柄を、爽やかな風と晴れた月にたとえたという『宋史』周敦頤伝の故事に由来する語で、心が清らかでわだかまりのないこととされる。
 
解説: 森岡 隆(筑波大学教授・博士(芸術学)) 2019.3
 
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