秋葉猗堂書 七言絶句 「征魯雑詩」


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 秋葉猗堂(いどう、名は斐、1842-1909)は、漢学者猪瀬豊城(名は愿、1781-1862)の孫であり、画家東寧(名は恕、字如心、1838-1908)の弟だが、幼くして漢学者秋葉竹堂の養子となった。明治政府の修史局に勤めた後、故郷の水海道で吉原謙山らと交わりながら晩年を過ごしたことが知られる。
 本作は「征露雜詩」と題する七言絶句を達筆の行草体で揮毫したもので、「誰言村將見機遅。兩度㝡(最)追勲逞竒。幾發砲聲樺太港。風髙虜艦壞殘時」と読める。起句の「村将」とは、明治35年(1902)に外務大臣として日英同盟締結の功で男爵を授けられ、同38年(1905)9月に日露戦争全権公使として日露講和条約(ポーツマス条約)締結の功により伯爵に昇爵した小村寿太郎(1855-1911)のことと解せる。小村はその後も44年(1911)4月に韓国併合の功により侯爵に昇爵したが、それは猗堂没後のことであり、この詩の時点では「両度」の叙爵であった。ともあれ、あからさまに名を挙げることを控えつつ、漢詩らしい修姓表記である。
 よって「誰かが言うには、小村寿太郎は機を見るのは遅いが、二度も勲功を追うことを第一とする逞(はや)さは抜きん出ている。樺太では幾度も砲声がとどろいたが、撃破し損ねた敵艦が港に停泊している」といった意に解せる。病により24歳で聴力を失ったと伝えられる猗堂だが、明治38年7月の樺太占領時の砲撃の音を転句に交え、結句の「風高」は、その前5月末の日本海海戦出撃の際の打電「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」を受けたものと思われる。
 落款は「猗堂散人斐」で、名と字(あざな)を刻した「斐字子磋」白文印と「猗堂」朱文印を捺す。朱文引首印「餘事作詩人」は、唐代中期の韓愈(768-824)の五言二十四句から成る「和席八十二韻詩」(席八に和する十二韻詩)の第二十句「餘事作詩人」(餘事、詩人と作(な)る)を用いたと思われる。席八は韓愈の詩友席夔(せきき)とされるが、「余暇に詩を作ること」。猗堂が公務の余暇に詩作していた時から使用していた印だろうが、小村寿太郎が伯爵に叙せられた明治40年(1907)9月21日頃、水海道での晩年の余暇の作に適う語句である。
 
解説: 森岡 隆(筑波大学教授・博士(芸術学)) 2019.3
 
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