奥原晴湖画 蘆雁図


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 雁は晩秋から初冬にかけて飛来し、早春に北に帰る。渡る姿は群れを成し、泣き渡る声は哀調を帯びるため、古来文人の漢詩に好まれ、その哀感、風情が絵画に描かれてきた。特に冬枯れの蓮の葉(荷葉)と描かれること多く「敗荷落雁」とも言い、また、月明かりの下で雁が飛ぶことから「月下飛雁」の名がある。
 奥原晴湖は古河藩池田繁右衛門政明の四女。蘭学者である鷹見泉石は伯父にあたり、幼少期より経学、書を学び、16歳で牧田水石に南北両州の絵画を学ぶが、のちに南画に転向。慶応元(1865)年に、母方の親戚にあたる奥原源左衛門の養女となり、江戸に住んで明清の古画を習熟し、とくに長崎に来泊した費晴湖に私淑して、晴湖を名乗ることとなった。
 蘆雁図は晴湖の制作の中では生涯にわたる画題の一つで、牧田水石に学んでいた古河時代に林良筆「蘆雁図」を写し、当時の雅号「雲錦女史筆意」として描いている。その後、「晴湖」33歳、明治2(1869)年に「雪月蘆雁図」を描いている。画中に「明治己巳蕤賓上澣倣趙子璧(注、趙子昂か)筆意」とあり、筆意に倣い描いたことを知る。
 明の王澤の七言絶句に「拍天煙水接瀟湘、蘆葦秋風葉々涼、何処漁郎夜吹笛、雁群驚起不成行」とあるように、蘆と雁は好個の対象として漢詩に詠われ、画題となった。我が国でも室町水墨画からはじまり、雪舟や狩野元信、永徳などの名作がある。
 本図は晴湖晩年の恬淡たる画境を得たころの制作であろう。画中に制作を示す記録がないが、絵は蘆雁を簡略に写し、極めて粗放な気分が漂う。若い頃の精緻で雄渾な画風は抑えられ、執着の見られない表現である。大沼枕山、鷲津毅堂などと交友しており、坂野耕雨とも交流があったことが窺える。江戸を離れ、熊谷に転居し、晩年まで生活した繍水草堂時代の制作と見てよいであろう。
 
解説: 守屋 正彦(筑波大学教授・博士(芸術学)) 2017.9
 
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