- 七言絶句「乍霽」
- 吉原謙山書
石下村出身の吉原謙山(名は遜、別号無我、1858-1931)が、半切サイズの絹地に自詠の七言絶句「有雨霏々滴戸楹。案頭有験待新晴。魚疑糊裏影揺曳。人与帰禽前後行」を揮毫したものである。激しい雨で家の柱も滴ってきたので、机の上で雨が上がるように祈願し、その験(しるし)を待っている。姿は見えなくとも、魚影が揺れることによって魚が泳いでいることがわかるように、人が行き交い、鳥がねぐらに帰って行くところからして、雨が上がったのだろう、といった意であろう。天候に関わることに魚影を引くのは意表をついた転句であり、まさに起承転結の妙で、たちまち晴れる、にわかに雨が上がるという意の「乍霽(さくせい)」の題のとおりの内容だが、右上がりの顕著な行草体で、初行の下三字「待新晴」などの連綿では息長く続けるなど、達筆である。
落款は別号無我を用いた「无我謙逸民」で、「謙山」と「竹徑獨看書」の両朱文印を添えるが、後者は中唐初期の大暦(たいれき)年間(766-779)の詩人 10人をいう「大暦十才子」に加えられることもある李嘉祐の五言律詩「送王正字山寺讀書」の第三句を刻したもの。それで上の「謙山」印は竹の節の形を用いたのであろう。竹印か竹節を模したものかはわからぬものの、円形印はまっすぐ捺しにくく、少し傾いたようである。これは、実印などを捺す際に実感されることである。
冒頭の引首印は「浩然元氣樂樵漁」朱文長印だが、これは、生没年不詳ながら850年代の事績が伝えられる唐代の詩人劉滄の七言律詩「題桃源處士山居留寄」の終句を刻したものである。仕官せずに桃源の山中で暮らすという題のとおり、心身ともに健やかに木を切ったり魚を釣ったりの様子であり、無我と号した謙山にふさわしい語句と言える。この謙山とて、名の遜の熟語「謙遜」からではなかろうか。
実際、謙山は乱れた髪であまり洗顔もせず、破れた衣と破れた履物ということで「謙山蓬髪垢面弊衣破履」と評されたと伝わるが、号や押印の語句から、無我の境地で斯学に打ち込んだことが察せられる。明治21年(1888)の著『探勝詩集』では勝海舟、山岡鉄舟らが巻頭を飾り、大沼枕山、間中雲帆、松田秋軒、渡辺華洲、秋場桂園らが詩を寄せているが、そうした人柄と学問があってこその交誼であっただろう。
解説: 森岡 隆(筑波大学教授・博士(芸術学)) 2019.3
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