中村不折書 「月波楼」扁額


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 月波楼の墨書は坂野家本宅につながる二階建ての大書院の、二階、付書院のある一の間に続く二の間に、床の間と向き合うように扁額として掛けられている。「月波楼」の名は桂離宮では観月のための四阿のような建物であるが、坂野家書院では二階からの景観を楽しんだと解釈できる。当主である耕雨は経学、漢詩文に造詣が深いことから白居易「春題湖上」の詩「月點波心一顆珠」(月は波の中に明かりを点じて、一粒の玉)に依ったものであろう。耕雨の子である坂野行斎は耕雨の遺稿をまとめ『月波楼遺稿』として明治21(1888)年に私家版として出版している。本書には「寄題諸篇」として耕雨ゆかりの人物からの寄稿を載せるが、その冒頭に梁川星巌が「寄題坂野大来書楼」として、月波楼を「枕上月波山翠落窓中」と書院からの景観を歌っている。
 扁額は洋画家として知られる中村不折(1866-1943)の墨書で、子規が発行した新聞「日本」の記者となり、1894(明治27)年に子規の影響で詩を投稿、この時「不折」と号した。30歳の折に子規とともに日清戦争に従軍し、『龍門二十品』や『淳化閣帖』など、拓本、碑文資料を収集して、これをもとに独自の書風を確立した。
 扁額の題字「月波楼」には末尾に「不折邨鈼」の署名と白字方印「中邨鈼印」、朱字方印「不折」が捺され、その手前に「題坂野大人書龕」とあり、書院の名を記したものであることが記されている。耕雨が亡くなったのは文久2(1862)年、不折は慶応2(1866)年の生まれである。また、坂野家には小坂芝田筆「松と太湖石」図双福も伝来している。不折と芝田は従弟同士であり、芝田の絵は干支「乙卯」から1915(大正4)年の制作である。坂野家書院「月波楼」は1920(大正9)に改築している。おそらく書院の完成に合わせて、息子坂野行斎が縁故を頼り、不折の書を求めたものであろう。
 
解説: 守屋 正彦(筑波大学教授・博士(芸術学)) 2017.9
 
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