貝塚

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いまから約一万年前に氷河期が終わり、地質学でいう沖積世をむかえることになった。気候が温暖になるにつれ、氷河が融けはじめ、日本は大陸とつながる陸地を失い、完全な列島を形成することになる。
 気温の上昇がさらに進むと海進が生じ、海岸線は平野の奥深くにまで進入して、発達した入江や溺れ谷を形成し、沿岸漁撈の絶好の漁場を提供することになった。また、台地には林野を繁茂させ、鳥獣の狩り場が生まれてくる。このようにして縄文期の恵まれた自然環境の中で生存活動を力強く繰り広げていくようになるのである。
 水海道地方の地形も、おおむねこのころに形成されたとみられるが、飯沼川にのぞむ大生郷貝塚や、その支谷にのぞむ築地貝塚・横曽根貝塚、そして鬼怒川右岸台地に存する大日山貝塚・花島貝塚などは、いずれも水海道市内では最も古い遺跡である。これらの遺跡からは、これまでに縄文式土器をはじめ、各種の石器、骨角器等に加えて装身具類も出土しており、その質的内容も一定水準の域に達していたことがうかがわれ、水海道地方の黎明期を理解するうえで欠くことのできない遺跡になっている。
 ここで茨城県内の縄文時代の遺跡分布を概観すると、量的には正確に把握されていないが、三〇〇〇か所をはるかに越えるものと推定されている。貝塚は霞ケ浦・北浦を中心とする県南部に集中して約三五〇か所が確認されており、関東地方においては千葉県に次ぐ数となっていて、貝塚研究に果たしてきた役割も極めて大きい。これは良好な自然環境のもとで気候・地形が居住地として適切であったことを物語っているといえる。水海道地方においても縄文時代の遺跡は一八を数え、これを小貝川及び鬼怒川に面する隣接町村における分布状況を含めて概観すると、守谷町一四、伊奈村一一、谷田部町一九、谷和原村五、豊里町一八、石下町一四というように約一〇〇か所にもなる。立地条件を同じくするこれらの地域においては、なお、多くの未確認遺跡の存在することが想定できるが、量的にもかなりの数に達するものと思われる。
 しかし水海道及び周辺地域では、計画的な調査例が極めて少なく、これまでに郷州原遺跡(守谷町)、洞坂畑遺跡(谷和原村)、大生郷遺跡(水海道市)などの調査が行われたのみであって、戦前においては、わずかに築地貝塚と東栗山貝塚(伊奈村)の部分調査が行われているだけである。
 このように遺跡の絶対数が多いわりには調査例が少ないため、これらの内容から当地方の縄文時代における特徴的な諸現象を解明することは不可能であるが、県内及び近県等での調査例や研究成果をふまえ、当時の人びとの生活のさまざまを求めてみると次のようになるであろう。