縄文人の生活

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こうした、縄文土器の変遷の過程で、原始信仰と精神生活にかかわる遺物の存在が特に注目される。それは、縄文中期の土器の中に、器体に実用の域を明らかに離脱しているさまざまな装飾を施すものが存在することによって確認される。土器は、本来生活必需品として創案され、日常用器として幅広く活用されていたものであるが、蛇身把手や人面を施すもの、器体を朱漆で飾る土器等は、明らかに呪術的な意味のこめられている造形物であり、行為それ自体は明瞭ではないとしても、そこに、土偶の存在と併せて、自然の豊かな恵みを願い、身体の正常な成育や傷病の平癒などを願う縄文人の呪術的な思いを推測できるのである。なお、土版・岩版をはじめ、石棒・石剣・石刀・独鈷石なども出土しているが、これらの遺物もそれぞれ原始信仰にかかわるものとして理解することができよう。
 

貝塚の集落址群
(横浜市港北区南堀貝塚)


土偶(大生郷貝塚出土)


骨角器(大生郷貝塚出土)


石剣・石斧(築地遺跡出土)


石棒・石斧・独鈷石(大輪町満蔵A遺跡出土)


市内出土の石鏃

 縄文時代の人びとは、ふつう、近くに湧水のある台地に、四、五人から一〇人ぐらいの家族で竪穴住居を営み生活していた。早い時期のころは二、三戸という小規模なものであったが、中期以降になると戸数もかなり多くなり、しばしば中央に広場をかこむように並んで、一定の配列がみられる。集落の近くに形成された貝塚も、環状又は馬蹄形に規則正しく堆積している例がみられる。このように定住的な大集落の成立や貝塚形態の著しい範囲拡大現象は、わずかずつではあるが、縄文時代の後半になると生産力の上昇に伴って人口も増加してきたことによる生活様式の変化を物語っているものといえよう。
 縄文時代は、狩猟・漁撈を中心とした採取経済の時代であった。だが、この時代にも、特に中期以降、定住的な大集落の成立していることの背景には、品種までは定かでないにしても植物の栽培、つまり、農耕の成立があったのではないかとする説は注目に値する。その論拠の一つとされる打製石斧や石皿が水海道市内の遺跡からもしばしば出土しており、石斧は農耕用の土掘り用具、石皿は製粉用の石臼ではないかと推定されている。いずれにしても、縄文時代の農耕の可能性を多分に想定できるとしても、土壌に遺存しにくい栽培食物が出土しないことと併せて、決定的な農具の発見に至らない今日においては、今後の調査研究に期待せざるを得ないのである。