稲作の普及に伴い、生活の場は丘陵・海浜から低地へと移動した。住居は一家族四~六人ほどが生活できる茅葺きの竪穴式住居であったが、土器は貯蔵用の壺、煮沸用の甕(かめ)・甑(こしき)・高杯(たかつき)など用途に応じた形態のものがつくられ、石製の紡錘車も用いられるようになる。このことは、既に織機を使って原始的な織物の生産が開始されたことを物語るものであろう。
農耕の発達は社会生活のうえにも大きな変化をもたらした。生産力が高まり収穫物の蓄積が可能になると、集落内にしだいに貧富の差が生ずるようになり、階級制へと発展していく。中期以降になると、治水・灌漑などに対応するため集落単位による共同作業も発達し、一つの水系、つまり、支流域とか中小河川の流域程度の小地域を統率する者の出現に至るのである。そうした支配者は、集落(集団)内の生産の指導や農耕儀礼をつかさどるとともに、政治的権限をもつようになったことは想像にかたくないところである。
このように、支配者のもとで組織化された集団は、相互に闘争や併合をくりひろげ、いくつかの集団を統率、従属させた有力集団の首長は、より絶対的な支配者としての強大な祭政の権限を掌握するようになる。このことは、当時の墓制にも顕著に示されており、北九州地方の甕棺墓(かめかんぼ)に副葬されている中国製の鏡や銅剣(どうけん)・銅鉾(どうぼこ)などから考えられることは、単に地域集団の支配者にとどまらず、大陸との交流を通じて権力者としての地位保全に努めたことがうかがわれる。