水海道市内の弥生時代の遺跡分布状況については、これまでのところ正確に掌握されていないのが実情である。しかし、七塚古墳群の周辺や内守谷地内からは、明らかに弥生時代の所産と判断できる遺物(土器)が発見されているので、これらの周辺に生活の場のあったことが容易に想像できるのである。その反面、水海道市域の大部分が、谷津田とそれに続く広範な湿地で占められている地形を考えるとき、水田経営に条件的に適応する地域とはいいがたいのであって、遺跡の分布状況を明確にされ得ない背景には、地形上の制約が要因となっているようにも考えられる。
登呂遺跡の集落址と水田 (『日本考古学の視点〔上〕』)
いまかりに、弥生人が生活の場を求めたとして、それは、台地上の限定された地域に集落構成をせざるを得なかったことであろうし、それも極めて小規模な単位集落にとどまっていたことであろう。とにかく、画期的な農耕文化をこの地方ではどの程度に導入されていたかは、遺跡・遺物が皆無に近い状況にある現在、文化相をとらえることに苦慮することが多い。
農耕具(1・2くわ,3・4すき)
(『日本考古学の視点〔上〕』)