県内の弥生遺跡

51 ~ 53 / 517ページ
当地方に弥生文化が伝播してきたのは、紀元前後のころと考えられている。西日本に比べて三〇〇年ほどの遅れが指摘されるが、県内では下館市女方(おざかた)遺跡、那珂町海後遺跡、大宮町小野天神前遺跡、北茨城市足洗遺跡などは中期の遺跡として知られ、再葬墓(さいそうぼ)と呼ぶ墓址が発見されている。後期になると、勝田市東中根遺跡、日立市曲松遺跡、十王町十王台遺跡、常陸太田市瑞竜(ずいりゅう)遺跡などがあげられ、数多くの住居址や土器類が出土している。なお、岩瀬町磯部遺跡からは石庖丁が発見され、勝田市東中根遺跡では住居址から炭化籾が、大洗町ひいがま遺跡からは鉄製鎌が出土するなど、県内の各地から農耕の普及を物語る遺跡が発見されている。
 水海道市内の弥生時代の遺跡分布状況については、これまでのところ正確に掌握されていないのが実情である。しかし、七塚古墳群の周辺や内守谷地内からは、明らかに弥生時代の所産と判断できる遺物(土器)が発見されているので、これらの周辺に生活の場のあったことが容易に想像できるのである。その反面、水海道市域の大部分が、谷津田とそれに続く広範な湿地で占められている地形を考えるとき、水田経営に条件的に適応する地域とはいいがたいのであって、遺跡の分布状況を明確にされ得ない背景には、地形上の制約が要因となっているようにも考えられる。
 

登呂遺跡の集落址と水田 (『日本考古学の視点〔上〕』)

 いまかりに、弥生人が生活の場を求めたとして、それは、台地上の限定された地域に集落構成をせざるを得なかったことであろうし、それも極めて小規模な単位集落にとどまっていたことであろう。とにかく、画期的な農耕文化をこの地方ではどの程度に導入されていたかは、遺跡・遺物が皆無に近い状況にある現在、文化相をとらえることに苦慮することが多い。
 

農耕具(1・2くわ,3・4すき)
(『日本考古学の視点〔上〕』)