弥生時代の終末のころ、中国大陸では、晋(二五六~三一六)が統一事業を成し遂げたが、やがて北方諸民族の侵入をうけて江南の地に移り、いわゆる南北朝時代がはじまる。この時期に東アジアの諸民族は中国の支配下から離れて独立し、国家統一の気運をしだいに高めていく。朝鮮半島北部では三一三年に高句麗(?~六六八)が、南部では四世紀に百済・新羅が国家を形成している。
この間における日本の社会の動静については、文献では明確にしがたい面が多いが、当時の大陸・朝鮮半島の情勢を背景にして、遅くとも四世紀の前半には、大和朝廷によって、九州北部から本州中部に及ぶ地域に政治的統一が果たされたものと考えられている。それは、大和やその周辺の豪族たちが連合して組織化された集団、指導体制的政権としての性格が強く、各地の主要な連合体や独立小国を武力や外交によって服属させ、統一事業を推進したものであろう。
この大和朝廷の統一事業の浸透は、全国に広がり、各地に分布する古墳、特に、その中でも前方後方墳や前方後円墳は、朝廷の勢力の波及結果を示す貴重な史跡であり、朝廷から派遣された豪族か、朝廷に服属した豪族、あるいは、その一族の墳墓と考えられている。