水海道地方の古墳

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水海道地方の古墳の性格や築造年代については明らかでない面が多い。しかし、これまでの七塚古墳群や大塚戸古墳群などの調査結果などからみるとき、埋葬主体部は七塚一号墳と四号墳については粘土槨や粘土床が採用されているが、他の古墳は横穴式石室と箱式石棺が用いられ、しかも、ほとんどが追葬・合葬を認めうる家族墓的性格の古墳である。埋葬主体部の構造上、粘土槨や粘土床・竪穴式石室の場合、地域差や立地、副葬品の内容等について十分留意しなければならないが、横穴式石室や箱式石棺の出現期からは年代的に先行する埋葬施設として一般的には考えられている。しかし、当地方の場合のそれは、古式古墳にみられる粘土状主体部とはほど遠いものであって、これをもって当地方の出現期の古墳とはいいがたい。しかも、これまでに確認されている埋葬主体部の位置関係で共通して指摘できる点は、すべてが墳麓に存在していることである。このように、墳麓に主体部の埋置されている例は、八郷盆地から筑波山西麓、そして、小貝・鬼怒川流域の県西から稲敷方面、霞ケ浦・北浦地方の県東、さらには千葉県北部地方にまで広範囲に分布し、いわゆる、変則的古墳と呼ばれる常総地方のごく限定された地域に採り入れられた葬法なのである。当地方の古墳の大半が、この地方的特色を具備する古墳で占められている点は、古墳群及び古墳の成立年代や支配層の消長を推考するうえで、注目すべきところである。
 二つの古墳群は水海道市域における代表的な存在であり、貴重な文化遺産である。いずれも、小範囲の限られた地域内に小型前方後円墳を中核として、主に小円墳をもって構成されたものであるが、これら古墳群の成立年代を考えるとき、埋葬主体の構造や位置関係が問題となってくる。
 これまでの調査研究により、粘土槨・粘土床・竪穴式石室・横穴式石室・箱式石棺といった構造の主体部を用いていることが知られるが、元来、古墳の主体部とは墳丘の中心に架構するのが通例である。しかし、水海道の古墳の場合は、いろいろな構造の埋葬施設が共通して変則的な位置に占められており、埋葬遺体についても、粘土状遺構については不明確であっても、その他の遺構は明らかに追葬、合葬方式をとっている。さらに、副葬品の種類や内容と併せて量的な面から考えても、それぞれの古墳の築造の順序を明確にしがたい点が多分にあるとしても、以上の諸様相からは、地域的特徴をもった比較的新しい古墳時代の後期、つまり、おおむね六世紀から七世紀代にかけて、あまり年代差のない古墳で構成された古墳群とみてよいであろう。
 水海道地方の古墳も大和朝廷の政治的背景のもとで造墓造営の図られたことは当然のことである。しかし、支配者層がその権威を確立するにあたって考えられることは、当地方は、前述のごとく、湖沼や低湿地帯が大きく広がり、農耕をはじめとする生産基盤は、必ずしも恵まれた条件のもとにはおかれていなかったといえる。権力のシンボルといえる古墳の築造にあたっても、主体部施工に石材による構築を企図しても、その用材は、すべてが筑波山麓から産出する「オンジャク」と呼ばれる石が用いられており、この遠隔の地からの入手と運搬にはかなりの労苦の伴ったことがしのばれる。石材の価値が重視されていたことは想像にかたくない。大塚戸古墳群の主墳とみられる前方後円墳は、細片の石材を入念に積み上げ完成させた小口積み石室である。石材に恵まれない地域における石材の扱い方を知るうえでの好例といえる。
 二つの古墳群の内容と存続期間から考え、当地方では、在地勢力を大きく伸長させるだけの政治的基盤が極めて脆弱であったと推測される。それはあくまでも地理的環境の制約からであり、小貝川・鬼怒川・利根川の各河川に挾まれ発達した狭長な低台地に分布する古墳の数は県内各地のそれと比較すると、けっして多いものではなく、地域における特徴的古墳も見当たらない。やはり水海道地方と同様に地理的制約に大きく左右されているものと思われ、地域社会の歴史的性格の複雑な面をのぞかせているといえよう。